加賀百万石の原点となった城。
小丸山城
所在地
別名
石川県七尾市馬出町
:なし
築城者
築城年
:前田利家
:天正9年(1581)


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■前田利家、能登一国を知行す

 確かに前田利家は大成しましたが、個人的には「無事これ名馬」の路線で成功した人というイメージがあって、出世が特別早かった人という感じはしません。出世スピードの一つの指標となる「一国一城の主」となった時期が、秀吉らの出世頭に比べれば遅かったせいでしょうか。秀吉が浅井氏の旧領に封じられて長浜城を築いたのが天正4年(1576)。
 一方、利家が所属していた赤母衣衆と、織田家中において双璧を成していた黒母衣衆から頭角を現したライバル・佐々成政が越中一国を得て富山城を居城としたのが天正10年(1582年)。利家が能登一国の大名として小丸山城に入ったのもほぼ同時期の事でしたから、良く似た境遇にあった同輩との間に決定的な出世スピードの差はなかったと言っても良いでしょう。もしかすると、末森城の戦いで成政に対して苦戦を強いられたものだから、成政に水をあけられてしまった印象受けるのかもしれません。
 ともあれ小丸山城を得たことで、利家は文字通り一国一城の主となれたわけで、加賀百万石の歴史は利家の能登入封から始まったのです。

■短期の居城

 天正9年(1581)、信長から能登国を与えられた利家は、一度は天下に知られた堅城である七尾城に入りました。しかし、山城である七尾城は能登一国の支配には不都合な部分も多く、利家は七尾城から程近い小丸山に新たな居城を築くことにしました。城は小丸山上の本丸を中心に、天性丸、宮丸という二つの曲輪を備えていました。これに加え、少し離れた大念寺山上に出城とも出丸とも言える砦を築くことで、小丸山城は一つの城域を形成していました。それでも全体の規模はさほど大きくはなかったようですが、本格的な戦闘向けには詰めの城として七尾城を保存していたためでしょう。
 利家の能登入国から2年ほどした天正11年(1583)に賤ヶ岳の戦いが勃発し、この戦いで秀吉に味方した利家は、戦後に石川郡と河北郡を与えられ尾山城(後の金沢城)に移っていきました。その後も小丸山城は能登支配の拠点として残されましたが、元和の一国一城令が制定された時に廃城となりました。
 現在、城跡は小丸山公園となっています。地形から平山城の名残はうかがえるものの、史跡と言うよりは都市公園のようです。公園内には利家と松の像のほか、七尾市にゆかりの記念碑の類が多く存在しており、その点からは七尾市民の憩いの場になっていると言って良いでしょう。

(2009年01月20日 初掲)















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