九州を鎮める大規模城郭。
小倉城
所在地
別名
福岡県北九州市小倉北区城内
:勝山城、鯉ノ城など
築城者
築城年
:細川忠興
:慶長7年(1602)


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■小倉城の始まり

 小倉城の歴史のはじまりについてはいろいろな見方があるようですが、現在見られる城の基礎が出来上がったのは、概ね戦国末の頃だとされています。
 城地は九州の入口に位置し、中国地方からの勢力伸張を狙う毛利氏や大内氏と、それに対する大友氏などの間で長らくその帰属が争われました。その争乱の過程の中で、城としての素地が出来上がっていったと考えられていますが、豊臣秀吉の九州征伐後、毛利勝信・勝永親子が近世城郭としての基礎を造り、やがて関ヶ原の戦いを経て豊前に入った細川忠興が、中津城に代わる居城として城の本格的な改修を始めました。慶長7年(1602)のことです。

■細川忠興自慢の城

 完成に五年の歳月を費やした小倉城は、百五十近い櫓に四十八の門、それに五層の天守を持つ壮大な城でした。特に天守の評判は高く、四層目と五層目の間に庇を持たないその形状は、「南蛮造り」と呼ばれました。城主忠興自身もこの城を自慢に思っていたらしく、津山城の項でも触れたとおり、森忠政に対しては城に関する情報を多く提供しています。もともとは城の評判を聞きつけた忠政が新城の参考にしようと小倉城の様子を内偵していたのですが、あるときその事実が露見。大名にとって自城に関する情報は最高機密であるだけに、普通なら細川・森両家の外交問題に発展しかねないところでしたが、忠興はかえってその機密を伝えたのでした。
 自慢の城の完成から二十年間、忠興は城下町の発展にも力を尽くしましたが、寛永9年(1633)に肥後へと国替えになりました。代わって入った小笠原氏は譜代の大名で、要衝に位置する小倉城で明治維新まで九州大名監視の任を果たしています。

■大都市に添える文化の香り

 忠興が礎を築いた小倉の城下町は、京都に範を取った町でしたが、現在では政令指定都市・北九州市の中核部として賑わいを見せています。小倉城のよすがは、そんな町の一隅に勝山公園として残っています。石垣や水堀の一部が残り、櫓や門も復元されています。もちろん再建された天守閣も目を引きますが、残念ながらこれは忠興時代の天守閣にアレンジを加えて建造されたもので、オリジナルは天保8年(1837)に火災で失われています。ちなみにそれ以外の建物も、幕末期に隣国長州との戦いにおいて焼亡しました。維新の原動力となった長州藩と、譜代の藩が隣り合っていただけに、この戦いは避けがたいものでした。
 公園化された城内には小倉城庭園の他、松本清張記念館などの文化施設もあり、観光地としてはなかなか見所のあるエリアとなっています。

(2009年06月30日 初掲)















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