古河公方が本拠とした城。
古河城
所在地
別名
茨城県古河市中央町
:古河御所
築城者
築城年
:下河辺行平
:治承4年(1180)頃


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■古河公方

 関東の城に絡めて佐竹氏や結城氏の出自について触れる機会が続きましたが、彼らに限らず、戦国時代の関東周辺には古くからの名門が実に多いと言えます。貴族政権の仕組みの中に武士が食い込んで行った平氏政権から一転、名実ともに武家政権の嚆矢となった鎌倉幕府のお膝元・関東地方は、すなはち武家のふるさとという性格を色濃く醸す土壌でした。それら古くからの関東の支配体制の象徴が、古河公方こと関東足利氏です。しかし、戦国時代の古河公方は、関東一円の鎮めたらねばならないその立場とは裏腹に、関東管領をはじめとする関東の有力諸侯の間に動乱の種をばらまきました。とどのつまりはそのことが、小田原北条氏と言う新興勢力の躍進を許す下地になったのに違いありません。
 下総国で勃発した第一次国府台合戦は、古河公方の一族である足利義明と北条氏綱の対立が軸となるものでしたが、小弓公方を自称し、古河公方家との対立を深めていた義明を誅するため、古河公方・足利晴氏が氏綱と同盟したことから、この争いは、北条氏はもちろん、里見氏や真里谷氏と言った南関東の諸侯を巻き込む形となります。結果的に、凡庸の人ではなかったと伝わる義明も、武運拙くこの戦に敗れ、討ち死にしました。一方、氏綱は父・伊勢盛時から受け継いだ勢力をさらに拡大させることに成功しており、戦国関東のパワーバランスは大きく揺らぐことになります。

■公方所館跡

 古河公方の城であった古河城跡は、現在では古河市歴史博物館になっています。厳密に言えば、今日古河城跡とされている場所は、出城と言うか出丸の跡に過ぎません。中世関東の権威の象徴のような城でしたが、その寿命は意外に長く、江戸時代になっても土井氏や松平氏をはじめ、譜代大名の入る重要な城として存続しました。廃城となった明治以後は、徹底的に破壊され、市街化の進んだ周辺には城跡であることを忍ばせる何物も現存していません。博物館回りに水堀風の水場があるものの、水が通っている以外は往時の構造をとどめているとは思えない、奇麗なものです。
 なお、城跡そのものと直接的な繋がりはなく、双方距離も離れていますが、古河総合公園のなかに、古河公方所館跡の石碑が立っています。こちらはまだしも近くに土塁、空堀の痕跡があります。いずれにせよ、古河市にとっての古河公方は、観光資源として重要な存在らしく、足利氏姫の桃香さんというマスコットキャラクターもいるようです。総合公園が花桃の名所なのだそうです。

(2015年08月01日 初掲)















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