江戸の守りを担う城。
甲府城
所在地
別名
山梨県甲府市丸の内1丁目
:舞鶴城
築城者
築城年
:徳川家康
:天正11年(1583)


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■躑躅ヶ崎に代わり

 戦国甲斐の政治の中心は、武田信虎によって築かれた躑躅ヶ崎館であり、それと対を成す詰の城として要害山城が築かれました。武田氏滅亡後に甲斐を統治した河尻秀隆の下でもその体制が続けられましたが、本能寺の変後の混乱で秀隆が一揆に殺害され、今度は徳川家康が甲斐の覇権を握ると、戦略上の必要性から甲斐の地を重視し、この要所を治めるのにふさわしい城の建築を構想しています。こうして天正11年(1583)に着工したのが甲府城でした。工事の責任者には平岩親吉が任命され、着々と作業が進められましたが、天正18年に豊臣秀吉によって小田原北条氏が滅ぼされると、家康にはその遺領への転封が命じられました。未だ完成を見ていなかった甲府城は、豊臣秀次の弟にあたる豊臣秀勝の治めるところとなります。しかし秀勝の統治も短く、甲斐および甲府城の主は加藤光泰、浅野長政・幸長と移り変わっていきました。築城工事は浅野氏の統治下において大きく前進、完成したと考えられています。

■江戸幕府の重要拠点

 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いを経て、家康は日本国内の仕置きを意のままにできる権力を掌握しました。戦後処理において諸大名の配置を自分の裁量で行った家康は、甲斐の国に再び平岩親吉を置きました。江戸を本拠地と定めた家康にとって、甲斐は以前以上に重要な意味合いを持つ土地となっていました。すなはち、甲州街道を東進して江戸に攻め入ろうとする敵への防波堤の役割を、甲府城に担わせる必要があったのです。その目的を果たすため、慶長8年には自身の九男である徳川義直を甲府城に入れ、甲斐の支配体制を強化しています。
 この義直こそが、後の御三家筆頭、尾張藩の藩祖となる人物でした。従って、義直による甲斐統治も4年ほどの短期間で終わりを向かえることになります。逆に言えば徳川幕府にとっての甲府は、巨鎮・名古屋城の主となるほどの要人が配されるべき要地だったわけです。実際に宝永2年に柳沢吉保が入るまで、甲府城は専ら親藩の城と位置づけられることになり、歴代の城主の中からは6代将軍家宣も輩出しています。
 柳沢氏以降の甲斐は天領となり、以後は特定の領主を迎えることがないまま明治維新を迎えました。

■甲府城の今

 明治以後の甲府城は、どうやら「鉄道敷設の際に駅の用地にされる」という旧城址にありがちなパターンをたどったのか、現在のJR甲府駅に南側に隣接するような形で石垣が残されています。古いお城本に見られる甲府城の記述によればかなり地味な城のイメージがあるのですが、実態はなかなかどうして立派なものです。近年大規模な城跡の整備工事が進行中らしく、甲府駅の北口側でも一部建造物が再建されており、そうした復元計画が旧城地に正確に従う形で行われているとしたら、甲府駅は復元甲府城内に半ば取り込まれる形になりそうにも思えます。今後甲府城がどうなっていくのかは興味深いところです。
 城内には天主台などが現存しており、周辺の街並みよりも高い位置に築かれていることもあって、甲府市街に向けても展望が利きます。逆に城の周辺地域から小高い石垣を見つけることも容易で、現在の甲府市の顔の一つになっていると言っても良いでしょう。

(2008年04月18日 初掲)















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