若き尾張国主・織田信長の居城。
清洲城
所在地
別名
愛知県清須市清洲
:なし
築城者
築城年
:斯波義重
:応永12年(1405)


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■再建された城

 清洲城は真新しい外見からも分かるように、比較的最近になって再建されたお城です。この外観は史料などに依拠したものではなく、同時代の城に関する資料を基本形とし、地元有力者の好みをも取り入れて現在の形になったなどともうわさされています。城郭用語でいうところの、再建天守と模擬天守の中間あたりに位置付けられる建造物となるのでしょうか。
 再建天守はJR東海道本線、および東海道新幹線の線路の間近にあります。東海道本線からはバッチリ見えますが、新幹線からは未確認。おそらく、防音壁に視界を遮られて車中から見ることは出来ないと思われます。
 清洲城一帯は小さいながら公園として整備されており、その一角には昔から信長の銅像が建っているようです。また、本丸直下の広場の片隅に濃姫の像も立っていますが、こちらは城と同時期に設置されたものなのか、夫婦はおたがい結構離れた場所で、別々に立っている感じです。
 

■戦国史と清洲城

 この城は尾張統一戦に目処がついた時期から、那古野城(現在の名古屋城二の丸のあたり)にかわる居城として信長の本拠地になりました。那古野城から5〜6kmほど北西方向に立地していますが、清洲は古くから尾張の首府で、戦国時代当時はこのあたりのほうが発展していました。その関係もあって、弘治元年(1555)に敵対していた織田信友からこの城を奪うと、青年国主信長は、程なくこの地に移ってきています。桶狭間の戦いへと出陣していったのも、この城からでした。
 やがて、信長が小牧城、岐阜城と居城を移していく頃になると、清洲城はしばらくの間は歴史の表舞台に顔を現わさなくなります。清洲城が再び歴史上のスポットライトを浴びたのは、皮肉にも信長が本能寺で横死した直後のことでした。羽柴秀吉が明智光秀を倒すと、秀吉はじめ、柴田勝家、丹羽長秀ら、織田氏の重臣が清洲城で一堂に会し、主家の後継者を誰にするかについて意見を戦わせています。これがいわゆる清洲会議で、最終的には秀吉の主張が入れられ、秀吉と勝家の対立へと発展していくのは周知の通り。
 江戸時代の初期まで清洲城は存続しますが、尾張徳川家の始祖・徳川義直が尾張の地に封じられた時期、世に言う「清洲越し」が行われ、城の建築物や城下町までもが現在の名古屋へと移され、清洲城は廃城となりました。
 

■往時を偲んで

 再建清洲城は、実際に建っていた場所からは少し離れた場所に建設されてしまってます。建物それ自体は既述の通り、往時のものではありません。これは日本全国津々浦々のほとんどの城に当てはまるので今さら何をかいわんやなのですが、はっきり言って信長の清洲城とは全くの別物です。せめてもとあった場所に建てて欲しいと言うのが戦国マニアの切なる願いなのですが、本来の位置は新幹線の線路に分断されているのだとか。
 歴史的な価値は皆無に等しく、こじんまりとした作りであるにもかかわらず、中に入る時にそれなりの額、お金を取られます。なので、内部は見てないですが、戦国云々と言うよりは、城の形をしたランドマークと言う印象を受けました。意外に目にする機会の少ない信長の銅像があるのがポイントでしょうか。私は信長の野望シリーズの、南蛮鎧にマントという姿が脳裏に焼きついてしまっており、普通の甲冑を身につけているためにあまり信長と言う感じはしませんでした。
 左の写真では橋が写っていますが、建物のすぐ下あたりを川が流れています。かつては周囲は水田地帯だったのでしょうか。完璧に平地の城です。ドラマなどでは桶狭間前夜の評定で、籠城案に対してこの城は籠城には向かないという否定的な意見が投げかけられるシーンを見た記憶がありますが、確かに力任せに押しつぶそうとしても、短期間で決着がつきそうな城です。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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