織田氏の重鎮・柴田勝家の居城。
北ノ庄城
所在地
別名
福井県福井市中央二丁目
:なし
築城者
築城年
:柴田勝家
:天正3年(1575)


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■北陸の押さえ・北ノ庄城

 本能寺の変勃発当時、柴田勝家は織田氏中でも筆頭家老の地位にいました。これは織田氏中で制度的に明確化されていたものではなさそうですが、それまでの実績や仕官年数からはじき出された暗黙の了解事項だったのでしょう。柴田家はもともと譜代の臣ではあったようですが、「信長公記」の記述などからすると、林・平手・佐久間などといった重臣に比べると格段に小身の身分から出世していったようです。
 「本能寺」の時期の勝家は、実務面では北陸方面軍の総指揮官となっていた関係で、その居城を北陸の入口近くの越前北ノ庄に構えていたのです。北陸方面には、加賀一国を席巻するほどの勢力を誇る一向一揆や、謙信以来の武門の家・上杉氏など難敵も多くその攻略は決して容易なものではありませんでした。それでも「本能寺」の天正10年(1582)頃には、北陸軍の最前線は越中(富山県)にまでせり出しており、北ノ庄城は最前線の城ではなくなっていました。むしろ、織田氏の中枢である畿内に向かい、北陸方面から殺到してくる最後の砦の役割を担っていたのかもしれません。そういう意味では正に、どっしり構える総大将の城という風格です。
 そんな北ノ庄城は、結局のところ勝家最期の地となる宿命を背負っていました。周知の通り勝家が、「本能寺」後に織田氏中でのイニシアチブを握ろうとする羽柴秀吉との政争に敗れたためです。
 

■柴田勝家、「清洲会議」に敗れる

 「本能寺」の時期、勝家の同輩クラスはどこで何をしていたのでしょうか。秀吉は山陽道で中国地方の覇者・毛利氏と対峙していました。変の当事者の一人・明智光秀は山陰方面切り取りの任も半ばにして秀吉のサポートに回されており、光秀がこの仕打ちに危機感を募らせたのが変勃発の原因の一つだったのではないかとも言われています。秀吉本人が勝家と並ぶ家中の重鎮と評した丹羽長秀は、信長の息子・三七信孝とともに四国の長宗我部氏討伐に向かうその途中でした。関東の北条氏には滝川一益が当っていました。
 普通に考えれば事件当日は大坂にいたという丹羽長秀(および信孝)が信長後継者の最右翼だったのでしょうが、長秀は最終的には秀吉による光秀討伐軍に参加する形になり、後継者レースで十分に存在感を示したとはいえませんでした。滝川一益に至っては事件を知った北条氏の猛反撃に遭い、命からがら領国に逃げ帰るほどで、一連の政争のハイライトである「清洲会議」に参加することすらかないませんでした。
 中には「本能寺」に伴う混乱で命を落とした武将もいたことを思えば、勝家は比較的スムーズに当面の敵・上杉氏との対決を切り上げて賊軍討伐の態勢を作り上げていたのですが、結局は秀吉が異常な要領の良さでその一枚上を行った形になりました。これが勝家にとっては痛恨で、それまでの出世競争では2、3歩後ろを歩いていたはず秀吉に清洲会議で対等な立場での物言いを許す結果につながります。さらに、「本能寺」以前から勝家に次ぐナンバー2の地位にいた長秀が秀吉に加勢したことで、勝家の敗北は決定的なものになりました。
賊ヶ岳の戦いと、その果てにあった北ノ庄落城、そして勝家の自刃は、つまるところ清洲城で行われた論争の延長線上にあったものでした。その事実からは、「戦争こそは政治手段の究極」という考え方が思い出されます。おそらくは、いっこくな武人・柴田勝家が、如才ない処世の達人・羽柴秀吉によって少しずつではあるにせよことごとく上を行かれた結果の出来事だったのでしょう。そう考えると勝家の死は、槍働き一つで出世できる時代の終焉を象徴する出来事だったような気さえします。


■「敗軍の将」への哀惜

 長々と勝家の運命について語ってきましたが、現在の北ノ庄城址はどうなっているのでしょうか。実を言うと城跡そのものは実に小規模なもので、今は公園と、勝家を祀った柴田神社が建立されていますが、福井の街並の中に埋没してしまいそうなほどのものでしかありません。おそらくは落城後に徹底的に破却されたのでしょう。これまた敗軍の将の悲しさを感じさせるものがあります。自宅近くには勝家の始まりの城である下社城址があり、同じ人物の最期の城を目の当たりにするのは独特の感慨がありました。
 それでも発掘作業や文献史料の考証によって近年では北ノ庄の城についての研究も進みつつあるようです。公園の一角に北ノ庄城時代の石垣が保存されているほか、おそらく10年程前には存在していなかったと記憶している資料館らしきものも、小さな城跡に建造されていました。
 勝家の最期と言えば彼と運命をともにした正室・お市の方の悲運も必ずといって良いほど語られます。もともと美男美女の家系だったと言われる信長の一族に生まれ、戦国一の美女と呼ばれた彼女も、戦乱の世の習いに従い近江の浅井長政と政略結婚を交わしました。ところが、信長と長政の同盟は後に破綻、浅井氏滅亡の折にお市は実家へ出戻っています。そんなお市を妻に迎えられたのも、勝家が織田氏の筆頭であったらばこそだったのですが、勝家はお市をはばかって最後まで側室を迎えませんでした。二人の間に子供は無く、お市が前夫との間に設けた三人の娘は、落城する北ノ庄の城から落ち延び、母同様数奇な運命をたどることになりました。城址公園は、勝家親子の悲運を今に伝えています。
 勝家辞世の句は「夏の夜の夢路儚き後の名を 雲井にあげよ山不如」。対するお市辞世は「さらぬだに打ちぬる程も夏の夜の別れをさそふ郭公(ほととぎす)かな」。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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