木曽谷の雄・木曽氏の詰城。
木曽福島城
所在地
別名
長野県木曽郡木曽町福島
:なし
築城者
築城年
:木曽義康
:天文年間(1532〜1555)


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■木曽の古豪

 「木曽路はすべて山の中」と言ったのは島崎藤村です。確かに木曽は山深いところですが、木曽川が穿った谷筋は北アルプスと中央アルプスを隔てて比較的起伏が乏しく、今ほど交通網が発達していなかった中世以前にあっては、美濃と信濃とを結ぶ通路として重要な役割を担っていました。
 木曽の領主として、戦国時代に存在感を発揮した木曽氏は、一説に木曽義仲の流れにつながる一族だと言われていますが、確証はありません。天文の末年になると、信濃侵攻の真っ只中であった武田晴信(後の信玄)の軍門に下っています。時の当主・義康は、一度は鳥居峠で武田軍を打ち破ってはいるものの、地力の差からも木曽氏が武田氏に勝利し続けるのは難しい事と言えました。そこで晴信に「木曽は侮りがたし」の印象を与えた上で、有利な条件を引き出して降伏したものかもしれません。武田の将となった木曽氏の所領は安堵され、義康の息子である義昌は晴信の三女・真理姫を正室に迎えています。この事実からは、晴信が木曽の地の重要性を認め、そこを永きにわたり統治してきた木曽氏の存在を重く見たことが伝わってきます。

■大大名の狭間で

 しかし武田氏の婚姻政策は、武田氏の斜陽化が進む時期になると一気に破綻を生じました。勝頼の代に迎えた滅亡に際しては、御親類衆の裏切りが相次ぎましたが、信玄の娘を妻に娶った義昌もその例に漏れず、天正10年(1582年)には織田信長に寝返っています。同年中の信長よる電撃的甲斐侵攻作戦は、木曽氏の寝返りによって美濃から信濃筑摩地方への直通ルートが確保された事が直接の契機になったのではないかとさえ思える節があります。
 織田氏が甲信の支配権を得た事で、これに貢献した木曽氏は木曽谷に加え筑摩地方の領有も認められましたが、武田氏滅亡から半年と経たないうちに信長が本能寺で横死し、木曽氏は結局、徳川家康に従属して木曽谷を保つ立場に逆戻りしています。そして天下の情勢が羽柴秀吉の方に傾き始めると、今度は秀吉に気脈を通じ、妻籠城において徳川軍と一戦を交えていますが、この戦いにはどうにか勝利しました。しかし、秀吉の対抗馬であった家康が、とどのつまりは秀吉に従属する事になると、木曽氏は徳川氏付きの武将となり、下総へと転封になりました。

■谷間の押さえ

 さて、戦国木曽氏の拠点となった木曽福島城です。戦乱期の木曽氏は福島を中心に周辺の谷筋にいくつかの城を築き、木曽谷そのものの防備を固めていたようですが、福島城はその中でも中核をなす城でした。その位置づけは、山すそにあった上の段城の詰城だったようで、本城とまで言い切れるものではなかったようです。
 それにしても、鳥居峠の対武田氏戦にしても、妻籠城の徳川氏戦にしても、木曽氏は地方領主なりに大物食いをしています。木曽の地の利を生かしたゲリラ戦を得意としたのでしょう。そう考えると、その中核となる山城・福島城も、いざ強敵をひきつけても容易には落ちない城だったのでしょうか。一面では、この城を支配する木曽氏の帰趨が周辺領主の運命を左右したと言えるのかもしれません。特に武田氏の場合はそれが顕著でした。
 天文年間に築かれたと思われる福島城は、木曽氏が木曽を去る頃に廃城となったと考えられます。三箇所ほどの曲輪跡と堀切や竪堀の跡を残す城跡は、平均的な戦国山城のそれと言えますが、武田氏系の城で優越的な遺構は特に目に付きません。
 城跡は城山遊歩道の一部になっていますが、熊が出没する地域のようなのでご注意を。城跡からの展望は期待できませんが、遊歩道の一部からは木曽駒が岳や木曽福島の街並みを見下ろす事もできます。

(2009年09月01日 初掲)





















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