山上に残る総石垣の城跡。
岸岳城
所在地
別名
佐賀県唐津市相知町牟田部
:鬼子岳城
築城者
築城年
:波多氏
:12世紀


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■怨霊の城

 ことネットに関する話で言えば、岸岳城の評判はあまり芳しくありません。曰く「九州北部で有数の心霊スポットである」。多くは噴飯物の誤伝で飾り立てられた安手の怪談です。
 これらの話は「岸岳末孫(きしたけばっそん)」と呼ばれる、戦国大名の滅亡悲話から生まれた唐津地域の土俗的な信仰を下敷きにしたものですが、凄惨に血塗られた落城の歴史を持つ城は、日本全国で枚挙に暇がありません。にもかかわらず、ことさらに岸岳城の怪奇性が喧伝されるあたりは、この種のうわさ話の無責任さと断じる事も出来ますが、実は城マニアにとって割と重要な意味を持っているとも言えます。つまり、この種の噂がある城というのは、城や歴史に関して特別の素養が無い人たちが熾烈な城攻めの光景を想像する助けとなる舞台装置=城郭遺構がそれなりの規模と保存状態で残されており、かつ訪問も容易な場合が多いのです。
 そういう視点から見た岸岳城は、有名観光地とするには一歩及ばないながら、特筆に価する見応えと、自動車利用ならばさほど苦も無く訪問できる利便性とが両立した、ある種とっつき易い城と言えます。

■波多氏の興亡

 岸岳城が築かれたのは、平安時代のことだったと推定されています。肥前松浦に一大勢力を築いた松浦党の最大勢力であった波多氏の居城であり、松浦地方の要衝に位置することとあいまって、松浦党の本拠とも位置づけられる大規模な城でした。ただし、城のあった標高320mの岸岳の山腹部には波多城も築かれており、本来の岸岳城は詰城としての性格が強い城だったのかもしれません。
 波多氏の最盛期は、戦国時代もたけなわの16世紀前半のことでしたが、やがて跡目争いが発生し、その勢力基盤が大きく揺らぐことになります。一時は反発した家臣の日高氏によって城を追われていますが、同時期の東肥前で急速に台頭していた龍造寺隆信の助力を得て、再び城主の座に返り咲きました。もっとも、一連の騒動により波多氏の実力は大きく減退し、結果的に龍造寺氏の麾下として存続することなります。
 ところが、波多氏にとって幸だったか不幸だったか、それから間もなく隆信が沖田畷の戦いで討ち死にをし、今度は龍造寺氏の先行きに暗雲が立ち込めるようになります。波多氏は再び独立領主として生き延びていく道を模索し始めました。
 この時期はちょうど島津氏が九州制覇に王手をかけた時期で、その攻撃の矢面に立たされた鍋島氏(龍造寺氏)や大友氏からの要請によって豊臣秀吉の九州征伐が実行に移されました。まず間違いなく秀吉の勝利に終わるはずのこの戦いに際して、波多氏は秀吉の陣に参陣せず彼の不興を買いましたが、鍋島直茂のとりなしで、どうにか所領を安堵されています。
 ところがそれから10年と経たない文禄の役の際、渡海先の戦場での行動を秀吉から叱責され、結局改易処分に付されました。城は寺沢広高に与えられ、元和の一国一条令で廃城となりました。

■織豊系の技術が見られる城

 冒頭触れた内容とつながってくる話ですが、岸岳城はその立地から受ける印象に反して、結構山の上の方まで車で登れます。駐車スペースから主郭までは短時間で移動できますが、私は徒歩で法安寺裏手から登りました。境内には、「岸岳末孫」の慰霊のため、波多氏としては最後の岸岳城主となった波多守親の石像が建立されています。比較的新しい像です。ここから二十分あまり、自然散策路のような山道を行くと、尾根筋に開かれた曲輪にたどり着きます。
 岸岳城は痩せ尾根に築かれたために、連郭式の細長い縄張りとなっています。どうやら物見に使われたと考えられる旗竿石のあたりから本丸・三佐衛門殿丸のあたりまでで1kmほどもあるようです。
 地方領主の城でありながら主だったところは総石垣で造られており、これは波多氏時代の遺構と言うよりは、織豊系大名である寺沢氏の手法が色濃く反映された城作りなのでしょう。
 三の丸の東西は、今も明瞭に残された堀切によって遮断されており、岸岳城の見所の一つとなっています。他、二の丸にはかなり深い井戸跡も残されていますが、本丸と二の丸を区切っていたであろう石垣はかなり崩壊が進んでいます。同じエリアには大手門の跡とされるものも残っていますが、こちらもかろうじてそれらしい地形が認められると言った程度。
 奥行きの深さもあり、かなり広大な城と言う印象です。時間の都合で三佐衛門殿丸まで入り込んだところで引き返すことになりましたが、その奥に姫落しと呼ばれる絶壁や、いくつかの伝説を残す抜け穴などが存在しているようです。

(2010年05月24日 初掲)



























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