公家大名の山城。
霧山城
所在地
別名
三重県津市美杉町下多気
:なし
築城者
築城年
:北畠顕能
:興国3年(南)/暦応5年(北)/康永元年(北)(1342)


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■御所と山城

 戦国大名の出自はさまざまで、守護大名から移行した武田氏や島津氏、陪臣筋から主家を超える実力を備えるに至った織田氏や長尾氏(上杉氏)、国人が下克上を果たした毛利氏や龍造寺氏などがいますが、珍しいところでは国司に任官した公家が戦国大名化した例があります。伊勢の戦国大名であった北畠氏などがそうです。
 戦国期、北畠氏の本城であった霧山城は、今でこそ交通の不便な山奥の盆地に残された山城跡となっていますが、往古には村上源氏の末という格式高い家柄にふさわしい城だったのでしょう。と言うよりは、多気御所とも呼ばれた北畠氏の居館の後背に控える詰め城であったとする方が適当でしょうか。かつてを偲ばせるものとして、その山麓の北畠神社には、今でも池泉廻遊式の北畠氏館跡庭園が残されています。

■北畠氏の興亡

 霧山城は、南北朝時代の康永元年/興国3年(1342)に伊勢国司となった北畠顕能によって築かれたと言われています。北畠氏は南朝方の有力な公卿で、霧山城の築城もまた、伊勢国内に南朝方の地歩を築くための布石となりました。伊勢神宮領の確保をもくろんでいたと思われる北畠氏にとって、霧山城は後醍醐天皇の逃れた吉野と伊勢神宮を結ぶ、ハブの役割を果たしていたとも言えます。しかし、前述の通り山深い場所にあったためか、南北朝期に北朝方の軍勢によって攻撃されたことはなさそうです。
 北畠氏は南北朝の合一から戦国時代にかけ、八代具教の頃に南勢の戦国大名として最盛期を迎えましたが、元亀元年(1570)に織田信長の攻撃を受け、これに屈服しています。具教は降伏の際に、養子として信長次男の信雄を迎えていますが、信長親子の狙いが北畠の家の乗っ取りにあることは明々白々でした。天正4年(1576年)、すでに隠居していた具教は、信雄により暗殺されました。この時に、信雄に敵対した霧山城も落城しました。
 具教以前と信雄以後では、北畠氏の戦略目標もおのずと異なり、信雄は自らの拠点を平野部にあった田丸城や松ヶ島城に移し、霧山城は廃城になったと考えられています。

■多気の天嶮

 霧山城までのアクセスについては現在でも難が多く、公共交通機関の貧弱さはもちろんのこと、少なくとも三重県側からは、マイカー利用でも尻込みしたくなるような狭隘路を経なければなりません。その割には現地で観光客の姿がちらほらと見られたのは、北畠神社と館跡庭園が有名だからなのでしょうか。
 霧山城のある霧山は、北畠神社の裏山に相当します。標高は600mを少し出るほどながら、神社からの高低差は240mあまりで、ハイキングコースとしては手ごろな高さの山なのかもしれません。
 主な曲輪は山頂部周辺に集中しています。尾根筋を堀切によって分割する形になっており、真ん中に位置するのが本丸に相当するものだと考えられています。本丸に従属する形で米倉跡があり、本丸から明確に分離された削平地が矢倉跡だとされています。また、これとは別に鐘突堂跡と呼ばれる平坦地もありますが、これらの呼称が城郭内における役割を正しく伝えるものだという確証はありません。いずれにせよ、規模の小さな城です。幾重もの山並みに囲まれた地形ゆえに、巨大な縄張りを必要としなかったのかもしれません。
 なお、山頂部にあたる本丸からの展望は、雄大の一言に尽きます。

(2010年01月19日 初掲)























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