自然地形を生かした天然の要害、宇都宮氏の城。
城井谷城
所在地
別名
福岡県築上郡築上町大字寒田
:茅切城、城井郷城など
築城者
築城年
:宇都宮信房
:建久6年(1195)


お城スコープ > お城総覧 > 城井谷城

■豊前国人一揆

 城井谷城は、豊臣秀吉の懐刀として名高い黒田官兵衛孝高をして容易に陥れることが出来なかった城として知られています。2014年の大河ドラマが黒田官兵衛ということで、城跡には「軍師黒田官兵衛 最大の宿敵 城井宇都宮鎮房」と書かれた幟がはためいていました。
 城井谷城は、豊前の国人領主だった宇都宮氏によって築かれた城でした。鎌倉時代に豊前守護職に就任して以降、土着化した宇都宮氏でしたが、後に名を城井氏と改め、戦国時代には国人領主化し、大内氏や大友氏、島津氏の狭間で存続していました。その立場は、家臣以上・従属的同盟者未満といったところのようですが、時宜にかなう勢力を渡り歩いたあたり、完全に麾下に組み入れられることはなかったようです。
 同時代の当主・城井鎮房は、最終的に九州全土が辿った運命と同様に、秀吉の軍門に下ることになりますが、当初より秀吉との関係は芳しくなく、父祖伝来の地である城井谷から伊予への転封を命じられると、その関係は決裂しました。一度は城井谷城を出ていたものの、秀吉との本領安堵交渉が暗礁に乗り入れるや、すでに黒田領に組み込まれていた城井谷城を奪取し、そのまま籠城の構えを取りました。寡勢ながら、官兵衛の跡目を襲っていた長政が指揮を執る黒田軍相手に良く戦いましたが、最終的には和議を口実に中津城へ召喚され、そこで謀殺されました。

■官兵衛の真骨頂とは?

 現在も残る地形から、城井谷が大軍の展開には不向きな地形で、多くの山城に対して行われたように、水の手を切ると言う戦法を用いるのも難しかったであろうことは想像に難くありません。鎮房の反逆に始まる豊前国人一揆の中で、黒田氏側としても兵糧攻めのような長期戦には持ち込みたくなかったことでしょう。
 その苦戦の様子に想像をめぐらせることは、官兵衛の手腕について考えをめぐらせることにもつながりました。もともと知恵者として知られる官兵衛ではありますが、「二兵衛」のもう一人、竹中半兵衛の稲葉山城乗っ取りのような、その智謀のほどを伝える華々しいエピソードと言うのは多くなく、秀吉の傍らに侍って大小数々の献策をした印象。他方、荒木村重の謀反に際しては、これを説得しに行って幽閉され、加えて城井氏に対しての苦戦。マイナス材料も色々と思い浮かぶのは否めませんが、能力的に疑問符がつくような人物であれば、秀吉に重用されることも無かったでしょう。天才型の知略の冴えではなく、鎮房の謀殺と言う形であるにせよ、国人一揆にきっちりと決着をつけたような、実務家としての強かな手腕こそが、官兵衛の真骨頂だったのでしょう。

■岩の城

 城は福岡県のその名も築城(ついき)町の山奥にありました。山深い場所であったため近世的領国経営には不向きで、中津城における黒田氏の領国経営が軌道に乗る頃には、城井谷城は廃城となっていたようです。
 21世紀を迎えた現在、史跡としての城井谷城は、なるほど、峻険な地形であったことの分かる谷筋に痕跡を残していますが、土木工事の跡は必ずしも明瞭でなく、石垣のような物はしばしば目に付くものの、大半が炭焼窯の成れの果てや同時代に組まれた石垣と推測されます。その一方で、天然の巨岩・奇岩を利用したものと言われる表裏の門跡などが残っています。
 「天然の要害」とは言いますが、城井谷城の場合はその表現があまりにもストレートにあてはまります。つまり、縄張りの妙や土木工事技術、そして天然地形が巧みにかみ合って鉄壁の守りを誇った城と言う雰囲気ですらありません。城跡としてはあまりにも異端と言うべきなのかもしれません。

(2013年05月11日 初掲)





















戻る
TOP