小江戸にたたずむ城郭御殿。
川越城
所在地
別名
埼玉県川越市郭町2丁目
:初雁城、霧隠城など
築城者
築城年
:太田道真・道灌
:康正3年/長禄元年(1457)


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■二つの上杉氏

 江戸時代、「世に小京都は数あれど小江戸は川越ばかりなり」と言われたのが川越の町です。川越の町の複雑に入り組んだ路地はまさに城下町のそれで、現在も蔵造りの町並みや時の鐘などといった江戸時代の町並みを思わせる観光名所が点在していますが、それらと並んで観光地川越を代表する名所の一つとなっているのが川越城です。現在まで本丸御殿を伝えているお城として有名です。
 そんな川越城も、その成立は江戸時代よりさらに古く、長禄元年(1457)のことだったと伝えられています。築城に関わったのは、太田道真と、その息子で江戸築城でも知られる太田道灌でした。中世関東において、この地は戦略上の重要性を持っており、川越城を築くことは、さながら武蔵野の北部に楔を打ち込むようなものでした。道真・道灌親子の主筋に当たる扇谷上杉(おうぎがやつうえすぎ)氏は関東南部を勢力基盤としており、扇谷上杉持朝は完成後間もない川越城に入城、以後この城を居城としました。
 後に扇谷上杉氏が上野国に根付いていた山内上杉氏と対決姿勢を強めていく中で、川越城は重要な位置を占めることになります。十五世紀中葉の関東では、この両上杉氏と足利公方の対立が争いの火種となっていましたが、皮肉なことに対足利氏戦略が小康を得ると、今度は扇谷と山内、二つの上杉氏が合い争うようになって行きます。やがて北条早雲こと伊勢盛時によって扇谷上杉陣営の一角を担っていた小田原城が奪われ、小田原北条氏が台頭してくると、同族争いで疲弊していた扇谷上杉氏は強くその圧迫を受けるようになります。

■河越夜戦

 天文6年(1537)、時の扇谷上杉当主であった上杉朝興が没しました。跡を継いだその子朝定は十三歳の若年であったため、これを好機と見た北条氏綱によって川越城は攻め取られています。
 扇谷上杉の没落により、今度は山内上杉氏が北条氏の影響を受けるようになりました。共通の敵を迎えることになった山内・扇谷の両上杉氏は再び和睦、さらには足科公方とも結んで川越城の奪還を画策するようになります。天文14年(1545)、ついに連合軍は川越城奪還の兵を起こします。このときに動員された兵力は八万騎とも言われる未曾有の大兵力でした。実質的に反北条の関東武士連合軍とも言えるこの大軍の前に、川越城は再び上杉氏の手に戻るかに見えましたが、城将福島綱成(北条綱成)に率いられた三千の兵の粘り強い戦いぶりにより、当初思われていたほど簡単には決着がつきませんでした。やがて、対陣が半年以上に及んだ頃、氏綱から代替わりしていた北条氏康自らが八千の兵を引き連れて救援に現れました。とは言うものの、北条方の兵は城の内外を合わせてわずか一万強。八万の大軍とまともにぶつかっても勝ち目はありません。そこで氏康は計略を仕掛け、連合軍の油断を誘うよう仕向けます。降伏宣言とも取れる弱気の和睦を申し入れたり、自陣営が厭戦ムードにさいなまれていると言う偽情報を流したり、あらゆる手を用いました。
 そんなことを半月ほども続けた天文15年(1546)4月20日、ついに氏康は連合軍の陣に夜襲を仕掛けます。氏康自ら陣頭に立って切り込むと言う決死行に、連合軍陣営は大混乱に陥り、おびただしい数の死傷者と、大将の一人である上杉朝定の討ち死にと言う結果を残して退却しました。世に言う河越夜戦の顛末です。この決戦に勝利した北条氏は武蔵国の支配権を確立すると共に、関東での優位をも手中に収め、対する山内上杉氏や足利氏は急速にその威勢を失っていくことになります。

■現存本丸御殿と

 かくして関東に覇を唱えることになった北条氏も、やがては天下人豊臣秀吉の武威の前に屈する時を迎えました。天正18年(1590)の小田原役に際し、川越城は他の北条方諸城と同じように前田利家ら秀吉方軍勢の攻撃を受けて落城。以後関東一円は徳川家康の領国となりました。江戸城を本拠地とした徳川氏にとって、川越城は江戸を守る最終防衛線の一角にも等しく、幕政下のこの城には酒井氏や松平氏といった譜代の大名が配されました。
 明治維新を迎え、川越城の主だった建物は解体されましたが、城の中枢ともいえる本丸御殿が現存しています。この御殿は嘉永元年(1848)に建造されたもので、比較的新しい年代の建物ではありますが、城郭御殿、とりわけ本丸御殿を残す建物は極めて数が少なく、貴重な史料として一般に公開されています。この他、御殿の南西県立河越高校の隣には富士見櫓があります。富士見櫓は元来天守閣を持たなかった川越城において天守にも相当するものだったと考えられていますが、こちらは建造物を残していません。
 なお、御殿の向かいに建ち、かつては城内であった三芳野天神社は、わらべ唄「通りゃんせ」にうたわれる「天神様の細道」の天神様で、境内にはそのことを伝える石碑が立っています。

(2008年09月22日 初掲)



























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