知られざる名将の城。
葛尾城
所在地
別名
長野県埴科郡坂城町坂城
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■村上義清の城

 まずこの城の呼び名について。多分、「かずらおじょう」ではなく「かつらおじょう」だと思うのですが、あまり自信がありません。文字情報として伝えるだけならば「葛尾城」と表記すれば良いだけなので、ここでは割り切ってしまいます。
 葛尾城の成立については不明な点が多く、文献上に初めてその名が見られるようになるのは、村上義清が村上氏の当主となった時代のことです。義清と言えば武田信玄に二度までも苦杯をなめさせた勇将ですが、その知名度は「知る人ぞ知る」レベルでしょうか。裏を返せば信玄との絡み以外で語られる機会は少なく、その意味では、それまで小土豪同士の内輪もめのような争いばかりで外から省みられることも少なかった北信が、義清の代になってようやく外部からの脅威にさらされる様になったとも言えます。
 このように築城年代の定かではない葛尾城ですが、いつ頃廃城になったのかもはっきりしません。今のところ確かなのは、天文(16世紀前半)の頃、この城に村上義清という武将がいて、彼が武田信玄と戦ったと言うことばかり。正しく義清と共にあった城といったところでしょうか。
 

■義清対信玄

 義清と信玄の二回に渡る対戦とはすなはち、上田原の戦いと、世に言う「戸石崩れ」につながった戸石城攻めです。上田原の戦いは決着こそつかない痛み分けの形になったとは言え、数的有利にあったはずの武田方が諏訪郡代・板垣信方らの宿将を失っており、事実上武田の敗北でした。戸石崩れは、一般に追われる側が非常に厳しいと言われる撤退戦の典型例で、戸石城攻めの退き際を誤った信玄(晴信)は、ここでも横田高松らの将を失っています。上田原も戸石崩れも、連勝に慢心した若い信玄に老練な義清が漬け込む形になった戦いですが、義清の采配は運にも味方され、あまりにも図に当たっていました。
 これらの戦いの中で、義清の本城である葛尾城が武田勢の攻撃にさらされることはありませんでした。しかし天文20年(1551)、信玄配下の真田幸隆が調略によって戸石城を落とすと、事情が一変します。戸石城が武田の手に落ちたことで葛尾城は常に武田方の脅威に去らされることになり、義清による北信の支配体制にも動揺が走りました。地力で圧倒的に劣っていた義清は、やがて信玄の鋭鋒をかわし切れなくなり、越後の上杉謙信の下へ落ち延びざるを得なくなりました。
 

■戦国の山城

 名将として鳴らした城主を失った後の葛尾城の影の薄さは前述の通りです。一応慶長5年(1600)ごろまでは存続していたようですが、その後は一国一城令に従って廃城されたのではないかと言われています。
 現在の葛尾城址は、戦国山城の佇まいを偲ばせる史跡です。長野の山城ですから805mという海抜高度はもちろんのこと、比高もかなりのもので、麓から山頂近くにまで登るだけでも小一時間かかります。地元の小学生なんかが遠足で登ったりするのでしょうか。城めぐりと言うよりはハイキングのような感じです。尾根筋一帯がかつて曲輪として整備されていた場所のようです。中段の写真が尾根道ですが、このあたりまで来るとふとした拍子に天候が悪化したりすることも間々あるようで、出来れば好天時の登山が望ましいと思われます。ガスが出ていると、展望も全く利きません。
 私が訪問した時には、麓にある鉄の展示館で村上氏と葛尾城に関する展示を行っていました。義清と村上水軍の村上氏とは遠縁であるとか、なかなか興味深い展示でしたが、残念ながら常設展ではなさそうです。この他坂城町内には、写真の村上義清の墓もあります。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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