「越後の龍」・上杉謙信の牙城。
春日山城
所在地
別名
新潟県上越市中屋敷
:鉢ヶ峯城
築城者
築城年
:未詳
:14世紀


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■越後支配の拠点

 戦国屈指の名将、「越後の龍」こと上杉謙信の居城として知られる春日山城の創建は、室町時代の初めか南北朝時代頃のことだったと考えられています。鉢ヶ峯城の異名で呼ばれていた初期の春日山城については不明な点が多く、その築城者についても未だ確定を見ていません。ただ、越後の守護職に就いていた上杉氏が詰の城としてこの城を築いたとする見方が妥当なようです。
 ここで言う越後守護・上杉氏は、後の謙信の直接の先祖ではありません。謙信=長尾景虎は、本来は越後守護代であった長尾の家に生まれた人です。そして、文献資料によると春日山城に在城したのは主にこの長尾氏の方だったようで、もともと春日山城は長尾氏との結びつきが強かったと言えるのかもしれません。
 初期春日山城に対して改修を加え、これを戦国の世に相応しい城塞としたのは謙信の父・長尾為景です。彼は戦国越後の下克上の先駆けとなった人物であり、時の関東管領・上杉顕定を倒し、ついには主家筋である上杉定実さえも差し置いて越後支配の体制を築き上げました。為景の後は長子晴景が襲いましたが、彼が戦乱の越後をまとめる器量に欠ける人物だったために、俊英の誉れ高かった景虎が晴景配下の諸将の推挙を受けて守護代の座に就き、春日山の城に入ることになりました。
 謙信は終生、春日山城を居城としました。謙信の死後、彼の二人の養子・上杉景虎と景勝の間で後継者争い(御館の乱)が発生し、これに勝利した景勝も、慶長3年(1598)の会津転封までの二十年間をこの城で過ごしています。
 上杉氏転封後の越後には堀氏が入りましたが、春日山城は他の多くの戦国山城がそうだったように、領国統治のために都合の良い平地の城(福島城)に取って代わられ、廃城となりました。

■林泉寺から千貫門まで

 春日山城の麓にあるのが林泉寺です。幼少期の謙信は、この寺で修行をしています。この修行は、仏門修行と言うよりは武門の子に相応しい教育を施すためのものだったようですが、戦国大名は嫡男以外の男子を寺に入れるということをよく行っていました。このような風潮の裏には、家督を巡る兄弟間の争いを防止する目的があったと言われています。とりあえず寺に入れておけば、必要があれば手元に呼び戻すことも出来ますし、戦国時代の僧侶はごく限られた数しかいなかったインテリ層の代表格で、彼らが大名子弟の教育係として最適だったと言うこともあります。戦国時代の寺は、要するに大名にとっての「跡取プール」のようなものだったのでしょう。
 謙信の場合、寺に入ったまま僧侶として一生を終えることはなく(後に出家騒動は起こしていますが)、14歳で元服して兄・晴景配下の武将となりました。兄に代わって越後を治めることになったのは、その5年後のことでした。ちなみに拝観は有料のようです。
 寺の上方の売店や謙信像があるあたりから先は、いかにも山城跡らしい細い坂道を登っていくことになります。もちろん実際の散策ルートにもよるのですが、私が最初に出くわした大きな平地は千貫門跡付近のそれでした。現地の解説板によると、千貫門は「春日山城の古絵図には必ず描かれている門」なのだそうです。そのことをもって、千貫門がそれほど古くから春日山城内に存在していたことの証左としていますが、常に春日山城と共にあった、まさにこの城を象徴するような建造物だったのでしょう。門が建っていたらしい場所は現在でも土塁の切れ目のような形で残っています。
 印象的なのは門の先に延びる切り通しで、一見すると狭いながらも通路のように見えるのですが、その反対側はほとんど絶壁に近い急な斜面になっています。これは、侵入者を崖下に転落させようとした巧妙な罠なのではないかとのこと。こういう危険なからくりこそ、軍事施設であるところの城の身上といったところでしょう。

■直江屋敷

 直江屋敷は為景の頃から長尾氏=上杉氏代々を支えてきた功臣・直江氏の屋敷跡と伝わる場所です。直江一門でよく知られているのは家老として上杉景勝を支えた直江山城守兼続の名でしょう。もっとも、直江兼続は功あって断絶していた直江の名跡を継いだ人に過ぎず、その意味で直江家側から見れば他所者みたいなものなのかもしません。
 兼続はその才能を豊臣秀吉に買われ、陪臣の身でありながら秀吉から三十万石を与えられたと言われています。この経緯については、秀吉が純粋に兼続の才能を愛したからだという説もありますし、本来の主筋である上杉氏の頭越しに兼続を厚遇することで主従を離間させようとしたという見方もあります。確かに秀吉は、伊達の家臣である片倉景綱や、(単なる陪臣として良いのかどうかは微妙ですが)小早川隆景の場合など、大大名の有力家臣に対して兼続と同じような対応を見せており、ある種の策謀だった可能性も否定できません。いずれにせよ、秀吉が兼続のことを「上杉の屋台骨を支えるほどの器量人」と見ていたことは間違いなさそうです。
 現在の直江屋敷跡はというと、平地に木が生えているだけの場所と言ってしまえばそれまでですが、上杉家中のVIPクラスの屋敷跡だけあり、ここまで来ると春日山城の心臓部は間近です。

■仏法への帰依

 現地の看板も含め、春日山城に関する解説の中ではわりと頻度高くその名が出てくるのが「お花畑」です。なんとなく城跡に不似合いな言葉に思えてしまいますが、どうやら仏様にささげる薬草や献花を栽培するための場所のようです。謙信には、「実は女性だった」という「不犯の聖将」ならではの俗説があり、「お花畑」という乙女チックな語感から反射的にその話を思い出したのですが、まったく関係がなかったようで。それはさておき、仏様用の草花の栽培スペースが出て来たら、上杉謙信のトレードマークとも言える毘沙門堂の登場も間近です。
 戦国時代を扱った創作作品の類は尽きることを知りません。それら作品の中で、名だたる戦国大名たちも作家の創意によってさまざまなキャラクター付けを行われてきましたが、各大名ともキャラクター作りに関してはある程度の定番が存在しているようです。織田信長は怜悧な癇癪持ち、豊臣秀吉はひょうきんながら如才ない人物、徳川家康は苦労人の古狸、武田信玄は巌のように構える軍略家、等々。
 中でも謙信のキャラクターはかなり強烈に確立されていて、多くの場合は武将なのか宗教家なのか分からないような、神がかりのちょっとアブナイ人として描写されます。横文字で言うとサイコさん。毘沙門堂は、それほど仏門に傾倒していた謙信の持仏・毘沙門天を祀ったお堂です。謙信は自らの軍を「降魔の軍」と考え、自身を絶対正義であると信じるかのごとく多くの戦いに身を投じていきました。
 今建っているお堂は新しく、昭和6年に再建されたもののようです。中には謙信の持仏の分身(写し)が祀られているとのこと。謙信が信仰した毘沙門天は、景勝の代に米沢にまで移されました。
 なお、毘沙門堂の近くには真言密教に関係する護摩堂も建っています。

■謙信の見た眺め

 春日山城の本丸は標高189mの鉢ヶ峯の山頂にあります。他の山城と同様にそれほど広い平地ではないのですが、現地にある石碑には「天守閣跡」と刻まれていたので、天守閣と呼べるような建物があったと言うことなのでしょう。それ以外は特に目立った遺構が残されているわけではありません。山の中にしては不自然なほど平らな土地であることから、人為的な整地が行われたことを窺い知れるだけです。
 春日山城本丸付近は、周囲を覆う立ち木も切り払われていて、上越市内はもちろん、中越・下越地方に対しても大きく視界が開けています。反面で西側は山に隔てられ、その向こうの様子を窺い知ることは出来ません。街並の変化こそあれ、謙信が眺めた景色はこのようなものでした。
 頚城平野の西側を仕切る山の向こう側には古くから交通の難所として知られた天嶮・親不知があります。この地理的条件からだけでも、謙信にとっての上洛=西進が容易なものではなく、反対に西から越後を脅かす存在も想定しにくいような気がします。もしかすると、謙信がすでに形骸化した関東管領としての職務に拘泥し、関東方面への遠征を繰り返したのは春日山城からの眺めが彼の世界観に影響していたためなのかもしれません。
 都合五回行われた川中島合戦の中でも最大の激戦と言われる第四次合戦に謙信が臨んでいたのと同じ頃、当時尾張一国の大名にすぎなかった織田信長が桶狭間に今川義元を倒しています。信長は桶狭間後の七年間を隣国美濃の攻略に費やしていますが、謙信は同じ時期をそれまでの対武田・対関東戦略の清算に充てています。美濃攻略後の信長が加速度的に天下掌握に向けて動き出したのに対し、謙信が越中・能登へと西進を開始し、加賀手取川で織田の先兵と干戈を交えたのはすでにその晩年のことでした。謙信がもしもいち早く天下掌握に向けて動き出していたら…。「謙信の眺め」と対峙していると、気宇壮大に夢想したくなります。
 現在の春日山城址はかなり大規模な史跡となっています。山麓に残る献物堀以外のほとんどの遺構は戦国時代からのもので、全てを見て回るには一時間でも足りません。事実私の場合、時間不足で上杉景勝屋敷跡を見学することが出来ず、ここでの紹介を割愛する羽目になりました。おそらくいつかあるだろう春日山再訪のときまでの宿題になりそうです。

(2008年03月01日 初掲)

























































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