天正伊賀の乱終戦の城。
柏原城
所在地
別名
三重県名張市赤目町柏原
:滝野十郎城
築城者
築城年
:滝野貞清
:永禄年間(1558〜1570)


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■忘れられた城跡

 柏原(かしわら)城は、天正伊賀の乱が終結を迎えた場所です。織田軍による伊賀殲滅戦となったこの戦いは、後世焦土作戦とも呼ばれるほどに苛烈を極めたと言われ、天下人の大軍によって次第に追い詰められていった伊賀土豪の最後の一団は、土豪滝野氏の持ち城だったこの城を最後の決戦地として織田軍との戦いに臨みました。
 柏原城は典型的な伊賀土豪の城で、規模も特別には大きくありませんでした。現在における柏原城も一般的には知名度が低く、そのため人から省みられることも多くありません。名張市郊外の田園地帯に残る城跡はまさに廃城と呼ぶにふさわしい鬱蒼とした森林となっています。城跡にはかつて人が手を加えたものと思われる平地や、空堀の跡などが残されていますが、史跡とはほとんど名ばかりの藪と化しています。傍目にはそもそも一般に公開されているものなのかどうかさえ分からない状態で、とてもその場所でかつて歴史的な事件があったとは思えません。ただ城跡近くの勝手神社に建つ石碑によって、辛うじてその付近が歴史的事件の舞台となった場所であったことがうかがい知れるばかりです。

■北畠信雄の独断専行

 一般に天正伊賀の乱は、信長の次男・北畠信雄の功名心に端を発するものだったと説明されることが多いようです。伊勢の戦国大名北畠具教は、信長の武威の前に屈服し、永禄12年(1569年)に信雄を養子として迎えることになりましたが、これは実質的に信長親子による北畠家の乗っ取りでした。事実天正4年(1576年)になると具教は信雄らに暗殺され、伊勢は名実ともに信長のものとなり、信雄がその直接的支配者となりました。そして伊勢を手中に収めた信雄は、今度は伊勢に隣接する伊賀の支配へと乗り出します。伊賀は数十とも百とも言われる土豪たちがめいめい砦を築いて一国を分割支配する、日本国内において他に類を見ない連邦制さながらの領国体制が成立しており、長らく北畠氏による支配をも拒絶していました。
 天正7年、伊賀支配の根拠地とするべく建築が進められていた丸山城が、伊賀勢の攻撃を受けて炎上したのをきっかけに、信雄の伊賀侵攻は実行に移されます。この軍事行動は信長のコントロールから離れた独断専行であり、かつその戦略が拙速に過ぎたため、惨憺たる敗北を喫することになりました。これが第一次天正伊賀の乱で、信長は信雄の軽率を散々に叱責するとともに、伊賀の土豪たちに対する警戒心を強めます。

■信長による殲滅戦

 天正9年9月。今度は信長直々の命により、六万にも届こうかと言う大軍が、五方面から伊賀国へと侵入します。総大将北畠信雄以下、丹羽長秀、滝川一益、蒲生氏郷、筒井順慶、浅野長政、堀秀政といった織田家中の有力武将の多くがこの伊賀攻めに参加し、まさに蟻の這い出る隙もない陣容でした。これに対する伊賀勢は一万に満たない数。伊賀と言えば忍者の国として知られますが、史実の伊賀者は、忍者ハットリ君のような異能者や超人の集団と言うわけではありません。戦闘に関して独特のノウハウは持っていたのかもしれませんが、各地で血みどろの戦闘を繰り広げながら圧倒的多数の織田軍団によって次第に包囲網を狭められ、ついにはわずかに残った一団が名張赤目の柏原城に立てこもるばかりとなりました。柏原城は数ある土豪の城の一つに過ぎず、その規模も大きなものではありませんでした。こうした状況に、一連の戦いが伊賀勢の玉砕によって幕を閉じるかと思われましたが、最後に織田軍と伊賀勢の和議が成立、柏原城は開城されました。こうして第二次伊賀の乱は幕引きを迎えました。
 なお、第三次天正伊賀の乱と呼ばれるものが本能寺における信長の横死後にも勃発していますが、これは前二回の乱との直接的なつながりはありません。

(2008年05月23日 初掲)





















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