虹の松原を見下ろす城。
唐津城
所在地
別名
佐賀県唐津市東城内
:舞鶴城
築城者
築城年
:寺沢広高
:慶長13年(1608)


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■寺沢氏の栄華と斜陽

 唐津城は、唐津の町の外れに近い、虹ノ松原を見下ろす高台の上に建っています。城を築いたのは、日野江城の時にもその名を記した寺沢氏。築城当時の当主は寺沢広高でした。文禄の役を機にこの地に根付き、関ヶ原の戦いを経て加増を得るに及んで築城に着手しました。秀吉の死の先年から江戸幕府の開府あたりの時期、広高は栄達の頂点を見たことになるので、唐津城はちょうどそんな寺沢氏の最盛期を象徴する城と言うことになります。
 しかし寺沢氏は、島原の乱の原因を作った一人として、江戸幕府から責任を問われることになります。一介の罪人同然の死が与えられた松倉重政とは違って、広高の跡目を襲っていた堅高は、命まで奪われることはありませんでしたが、天草にあった所領は没収されました。そして乱から10年後の正保4年(1647)に、堅高は自ら命を絶っています。一連の出来事が、堅高の精神を疲弊させた結果だと言われています。跡継ぎはなかったため、寺沢氏は断絶しました。

■懲罰人事の城?

 以後の唐津城は、譜代大名が目まぐるしく入れ替わるように封じられる城となりました。譜代格の城とは言いながらも、封じられる大名は行跡に芳しくない評判の着きまとう人物が多く、言ってしまえば懲罰的転封の結果として唐津城に国替えとなった者が多いように思われます。最初の主のたどった顛末が顛末なだけに、験がいい城とは見なされていなかったのでしょう。江戸幕府による国替えの判断材料にそうした要因があったのだとしたら、興味深いところです。
 城自体は明治維新まで続き、その後廃城となって公園化されました。現在見られる天守閣が建ったのが昭和41年(1966)のことですが、本来の唐津城に天守閣が存在したと言う記録は残っておらず、昭和築城の模擬天守と言うことになります。そして2017年春の訪問時、その模擬天守も工事中のため中に入ることができませんでした。ただ、海に面した独立丘上の城と言うロケーションから、展望には優れる城です。特に音に聞く虹の松原と白砂の浜が美しく、印象に残りました。

(2018年08月19日 初掲)

















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