謙信を悩ませた下野の山城。
唐沢山城
所在地
別名
栃木県佐野市富士町
:栃本城など
築城者
築城年
:藤原秀郷?
:10世紀


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■藤原秀郷の築城

 唐沢山城は数度にわたって上杉謙信の攻撃を受けた山城として知られています。不落を誇ったわけではありませんが、戦巧者の謙信ですら容易に陥れることができなかったことから、その名を高めた城と言って良いでしょう。
 城の歴史は、もともと俵藤太こと藤原秀郷に始まるものだと言われています。平将門を倒した人物として知られる秀郷もまた、後に神格化された将門と同様に伝説めいた逸話を持つ人物で、それがため唐沢山城址も現在では、秀郷を祭る唐沢山神社となっています。
 伝説に依拠すると、秀郷の出自は都近くということになりますが、何らかの経緯により下野国と縁付いていたことは確かなようで、それが後の将門討伐への伏線となります。

■唐沢山城の戦い

 秀郷の後裔は佐野氏を名乗り、唐沢山城を本拠地として戦国時代を迎えました。佐野氏自身は決して強大な勢力を誇る領主ではなく、関東の軍事力が小田原北条氏と越後の上杉氏の二極に収斂していく中、難しい立ち回りを余儀なくされます。初期には上杉氏に与していたものの、後には北条氏とのつながりを強めていきます。謙信との一連の戦いは、「唐沢山城の戦い」として知られますが、各個の戦いに直接的なつながりはなく、唐沢山城主・佐野昌綱が謙信に臣従し、やがて離反し、討伐され、再び臣従するというサイクルの中で戦いが繰り返されました。越後を本拠とする謙信が関東に進出する際、唐沢山城は非常に重要な場所に位置していました。
 そんな佐野氏も、豊臣秀吉による小田原征伐に際しては、北条氏の傘下を離れ、秀吉に通じています。さらに関ヶ原の戦いにおいては東軍に着いた事で本領を安堵され、佐野藩を立藩しました。
 しかし、その後は奮わず、慶長19年(1614)には早くも改易されています。江戸で発生した火事の現場に駆けつけ、その消火に功があったものの、江戸の変事をいち早く察知したことをかえって警戒されたものだとも、大久保長安と姻戚関係にあったことから、長安に係る疑獄事件に連座する形で処分されたとも言われています。その後の佐野氏は旗本として存続し、無主となった唐沢山城は、新しい領主がやってきても、平城として築かれた佐野城にその役割を譲り、廃城となりました。

■城跡と神社

 現在ではハイキングコースとしても知られる唐沢山城は、江戸の火災の様子を視認できたという逸話を実感できる好展望の地です。
 城跡の地形は典型的な山城地形と言って良いところですが、神社が建築されているため、石垣はじめ、現在も存在している地上構造物のどこまで城郭時代の物を温存しているのか、その見極めは難しいところです。ただ、全部が全部神社の建築の際に積まれたものではないでしょううから、間違いなく一部は城の名残なのでしょう。このほかに土塁、堀切、枡形などもあり、これらは明らかに城の遺構としてよいところでしょう。
 そんな具合に、城跡と言うよりは神社として、そして周辺を見渡す展望台としてよく知られる唐沢山は、現在もそれなりに多くの人の訪れを受けているようです。

(2014年03月03日 初掲)















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