有力守護大名赤松氏の山城。
感状山城
所在地
別名
兵庫県相生市矢野町瓜生
:なし
築城者
築城年
:赤松氏
:不明


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■赤松氏の勃興

 感状山城は赤松氏によって築かれた城でした。
 播磨の赤松氏と言えば、下克上の中から勝ち名乗りを上げた戦国大名と比してさほど強い印象は残しませんでしたが、もとは室町幕府において重きを成した名族でした。ことに、嘉吉の乱や応仁の乱など、戦国時代の先触れとなった歴史的事件については、赤松氏が重要な役割を演じたものと言って過言ではありません。
 赤松氏が史上にその名を現すのは、円心こと赤松則村の時のことでした。鎌倉幕府打倒に多大な軍功があり、播磨守護となりましたが、建武新政の時期においては冷遇され、同じく新政に不満を持った足利尊氏をよく助け、室町幕府の樹立にも功績を残したことから、足利幕府の重要人物の一人となります。その家格は、三管領(細川氏・斯波氏・畠山氏)に伍する四職(赤松氏以外はは一色氏・京極氏・山名氏)に数えられるほどでした。

■二つの乱

 しかし、その権勢の大きさゆえに、満祐の時には、将軍への集権を企図した六代将軍・足利義教から遠ざけられるようになります。義教の攻した動きは、赤松宗家と庶家の離間を生みましたが、このことで、満祐はかえって義教の暗殺を実行に移すことになりました。しかし、当然他の実力派幕閣がこれを見過ごすはずもなく、満祐自身も攻め滅ぼされ、赤松氏の正統は途絶えることになります。
 一方、将軍が暗殺されると言う異常事態が足利将軍家に残した傷跡も深く、義教の跡を受け、義勝・義政と幼い二人の息子が相次いで将軍職に着くことにはなりましたが、このことが後見人たる有力大名の幕政への発言権を強め、義政の後継者問題に至っては、ついにその有力二派が武力衝突を起こすに至りました。言うまでもなくこれが応仁の乱ですが、命脈を保っていた赤松氏の傍流・赤松政則は、細川勝元に味方し、これに功あって播磨守護に復帰することが出来ました。
 もっとも、赤松氏が武門としてその名声を高からしめたのも、おおよそこの時期までで、以後は下克上の風潮の中、浦上氏に代表される、後に戦国大名へと成長する有力家臣によってその領地を蚕食されるようになります。織田氏による近畿一円平定が完了する頃には、一族は時の権力者の配下として、細々と続くだけになりました。
 そして、一時とは言え、三国守護をも務めた大名の末は、一介の旗本として幕末を迎えたのでした。

■初期山城の雰囲気

 さて、感状山城です。建武の新政の頃、攻め寄せる新田義貞の軍勢を支えた城として知られる白旗城、赤松氏の本城であるところの置塩城と共に国史跡指定史跡赤松氏城館跡の一つに数えられている城ではありますが、いつ誰によって築かれ、どのようにして終焉を迎えたのもはっきりしない城です。とは言え、山城遺構としてはまず折り紙つきの部類に入るといって良いでしょう。
 羅漢石仏の里として知られる相生市瓜生地区でバスを降り、その名も羅漢の里という、自然学習施設を脇に見ながら登るのが、城のある感状山です。20分もあれば尾根筋上の城郭遺構までたどり着くことが出来ますが、まず大規模な削平が目に付きます。山頂が近づくにつれ、道にごろごろと岩が転がっているのが目に付くようになりますが、石積みの技法で言えば、野面積みの体すらなしていません。それにしても、数や分布から見て自然石でもないでしょう。おそらくは、最初期の技法で積まれた小規模の石垣が崩れたものと思われます。曲輪跡の一部には、旧状を保つ石垣も残っています。
 この他、大手口とそれに付帯する虎口と思われる地形も認められますが、やはり、数段に渡って展開される主郭と、それに付属する帯曲輪、そしてそれを鎧うかのような石垣の成れの果てが圧巻です。

(2012年10月23日 初掲)





















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