大陸との窓になった宗氏の居城。
金石城
所在地
別名
長崎県対馬市厳原町今屋敷
:厳原城
築城者
築城年
:宗将盛
:大永8年/享禄元年(1528)


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■対馬の殿様

 玄界灘の波間に浮かぶ対馬国は、本土を遠く離れた僻遠の地で、在地の領主が割拠するも、13世紀頃には宗氏の下に統一されていました。13世紀末の元寇では、日本側の最前線となった対馬はかなりの損害を被ったと伝えられ、宗氏当主も討ち死にするほどの激戦となったと伝えられていますが、国内におけるその独特の立ち位置も相まって、その統治体制自体はすでに確立されたものとなっていたようです。
 さらに時代が下って15世紀の半ばになると、日本は戦乱の時代を迎えました。そんな時勢の中にあっては宗氏も本土進出を企図したことがありましたが、地勢の故もあり、事業の成果ははかばかしくありませんでした。しかし、対馬が九州方面の有力大名に蚕食されることもまたなく、宗氏は秀吉による全国統一の時に立ち会うことになります。この際に本領を安堵され、以後は徳川氏の治世へと時代が移ろっていった時にも、結局は本領である対馬を安堵されました。この時期になると、国境の島で朝鮮との外交関係を維持し続けてきた宗氏の立ち位置は、他の何者によっても脅かされ得ないものとなっていたようです。対馬自体は生産性の乏しい僻地に過ぎず、宗氏は交易により収入を得ていましたが、これは数百年にわたって朝鮮半島との関係を構築してきた宗氏だからこそ成し得るものなのであって、他のいかなる大名を封じたところで、対馬の統治者としての責めを負うことはできないと判断されたのでしょう。

■政治の舞台として

 金石城は、一国の領主としては稀有な長命を保った宗氏の居城ではありますが、その歴史は意外に新しく、嚆矢となるものは享禄元年(1528)に築かれたに過ぎないのだそうです。宗氏は李氏朝鮮に朝貢するとともに、朝鮮通信使を迎えるなどもしていたため、それに見合う政治の舞台として、江戸時代以降も金石城を整備していったものだと考えられています。いざ大陸との間に緊張が走れば、軍事拠点としての機能はその背後に控える清水山城に求められることになったのかもしれませんが、そも江戸幕府には、豊臣秀吉のように朝鮮やその背後の明と事を構えようという考えはなかったものと思われます。一般的な城郭の運用からして、執政所後背の山を詰め城とするのは飛躍した発想とは思えませんが、現在の保存状態を見る限り、この朝鮮役の際に築かれた山城は、時代が下るまで使用されていたわけではなさそうで、軍事拠点ではなく政庁としての金石城のみが藩政期を通じて保存されたのでしょう。
 交易立藩の対馬藩も、土地の生産力は極めて低いものでした。国力に立脚する城の規模もかなり小さく、現在は石垣と、再建された大手門(高麗門)が旧情を忍ばせるのみです。なお、城跡には旧金石城庭園という旧跡も存在していますが、訪問時には入口の門が閉ざされていました。

(2015年05月29日 初掲)















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