秀吉の撤退戦で知られる城。
金ヶ崎城
所在地
別名
福井県敦賀市金ケ崎町
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■織田軍の越前侵攻

 日本史上異例の大出世を遂げた豊臣秀吉の人生は、数々の手柄話によって彩られます。「金ヶ崎の退き口」として知られるくだりもその一例ですが、知恵者としてのイメージが強い秀吉にしては珍しく、槍働きによって名を上げたと言う点において、他とは少々毛色の違う出来事でした。金ヶ崎城はこの際の一連の戦いにおいて、戦闘の焦点となった城の一つです。
 城の歴史は平安時代から鎌倉時代頃にまで遡ると考えられており、「太平記」には新田義貞が尊良親王と恒良親王を奉じて入城した事が記されています。
 戦国時代になって、織田氏と越前朝倉氏の対立が決定的なものになった元亀元年(1570)には、織田信長が自家の主力と徳川家康の援軍を動員して、朝倉義景の討伐に向かい、その緒戦においてここ金ヶ崎城を落としています。しかし、信長にとっては寝耳に水の出来事が発生したのが、ちょうどその頃の事でした。

■金ヶ崎の退き口

 信長にとって妹婿、すなはち義弟に当たる江北の浅井長政が、突如として朝倉義景と結び、信長に対して反旗を翻したのでした。すでに若狭湾岸に展開していた織田軍は、前に朝倉軍を、後ろに浅井軍を迎える挟み撃ちの形に追い込まれ、窮地を迎えます。かくなっては一刻も早く朝倉浅井の勢力圏外に離脱するのみとなりましたが、軍勢が撤退を始めれば、朝倉軍も追撃を始めるのは戦術上の必然でした。そこで、これを防ぎ切る殿軍の存在が重要になってきます。秀吉は、この困難にして非常な危険を伴う任に自ら志願したと伝えられ、見事これをしてのけたので、「金ヶ崎の退き口」として後世の語り草となりました。
 人口に膾炙したエピソードですが、秀吉のいくつかの出世談と同じく、近年では異説も出てきているようです。異動はあるもののそれらの説に共通する要点は、「織田軍の退却の成功は秀吉一人の突出した手柄によって成功したものではない」ということです。近い将来、この戦における秀吉の評価は覆るかもしれません。
 一方ここで信長を討ちもらした朝倉氏と浅井氏は、結局自分の首を絞めることになりました。二つの勢力の確執は、後年の姉川の戦いへとつながっていきます。

■海辺の高台

 金ヶ崎城址は、敦賀の市街地の外れにあります。これより北は、一山越えたあたりからは山が海に迫る越前海岸が始まっています。城はその立地上、越前と若狭を隔てる山地を背負うような形で築かれていました。
 金ヶ崎宮の奥から散策路が続いており、本丸に相当する月見御殿跡までは、登りはじめから10分ほどで到着できます。三箇所に木戸の跡が残るなどしていますが、城跡としてはやや簡素な印象です。
 基本的には樹林に覆われた城跡ながら、木々が途切れた箇所からは、敦賀湾を眼下に見下ろす事ができます。

(2009年12月05日 初掲)















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