運命に翻弄された織田信孝と神戸氏の城。
神戸城
所在地
別名
三重県鈴鹿市神戸5丁目
:なし
築城者
築城年
:神戸氏
:天文19年(1550)頃


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■神戸氏と信孝

 神戸(かんべ)城は伊勢の豪族・神戸氏の居城で、1550年代頃に築かれたもののようです。
 神戸氏はもともと北勢から近江にかけての地域に勢力を張っていましたが、永禄10年、七代友盛の時に織田信長の侵攻を受けて降伏しました。友盛はこのとき、信長の三男・三七郎(信孝)を養子に迎え入れる事を条件として、神戸の家名の存続に腐心しています。
 もちろん養子とは言っても、あくまで政治力学に基づいた緊張関係です。形式の上で友盛と信孝は親子になりはしましたが、やがて友盛は義理の息子となった信孝に追われ、神戸家当主の実権を簒奪されています。この段階で、信長親子による神部家の乗っ取りが成立したわけです。友盛が気の毒にも思えてきますが、一応家名は残したのですから、友盛は本懐を遂げたと言えるのかもしれません。友盛の頃までの神戸城はいかにも地方豪族の居館と言う風情の砦の如き城だったようですが、今をときめく織田信長の息子が当主となったことで改修が加えられ、その規模を拡大したようです。
 

■そして誰もいなくなった

 その信孝は、信長が本能寺で倒れた時に織田姓に戻しています。友盛が死んだ段階で神戸家は事実上途絶えていたのですが、ついには神戸の名も消滅し、城もまた、信孝亡き後には天守閣が本多忠勝が築いた桑名城の部材(神戸櫓)として使用されるなど、規模を縮小しています。
 現在は公園として整備されており、石垣が残されている他、信孝時代からの城の縄張りの様子もうかがいやすく、鈴鹿市の市街地近くのお城であることを思えば、まずまず良好な状態で保存されていると言えます。地上建築物の類は、大手門が四日市市の顕正寺に移築されるなどしていますが、現地にはいっさい残されていません。
 

■信孝の悲劇

 神戸信孝=織田信孝は、あまり恵まれた生涯を生きた人物ではないのかもしれません。
 彼は本来であれば信長の次男であったはずなのに、彼より20日後に生まれた信雄の方が母の身分が高かったため、公には三男とされる差別待遇を受けています。信雄の生母は生駒氏(吉乃、信長嫡男・信忠の生母)でした。
 このような出生にまつわる因縁があったためか、信孝と信雄は折り合いが悪く、本能寺の変に端を発する信長の跡目争いにおいても、二人が協調路線を歩む事はなく、かえって秀吉を利する結果に終わっています。二人のその後は、天下人信長の息子と言うにはあまりにもわびしい物でしたが、信孝に至っては秀吉の命令で処刑されています。辞世は「昔より 主をうつみの 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前」。
 信孝本人ももちろん不憫なのですが、割を食ってしまったイメージがあるのが義父である友盛です。神戸城を訪れてみると、運命に翻弄された信孝の生涯と、奇妙な縁からそれに巻き込まれてしまった神戸氏の哀しみが偲ばれるようです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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