加賀百万石の城。
金沢城
所在地
別名
石川県金沢市丸の内
:尾山城
築城者
築城年
:前田利家
:天正8年(1580)


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■金沢城再建

 近年大河ドラマの主人公となった前田利家にゆかりの百万石の城が、金沢城です。10年程前まで金沢大学の城内キャンパスが存在していましたが、近年公園として整備され、石川門、三十間長屋など現存の建物の他、五十間長屋が再建され、この城の白眉となっています。藩政時代からすでに存在していなかった天守閣こそ再建されていませんが、公的には金沢城を象徴する建物であった五十間長屋を再建したことをもって城の復元が成ったとみなされているのか、「金沢城址」ではなく「金沢城」と表記されています。
 金沢城は、織豊政権から江戸幕府への移行時における前田家栄達の歴史の中で拡張されていきますが、度々の火事にも悩まされ、天守閣などは火災で失われています。最終的には焼失した建物は再建されず、二の丸に城内のさまざまな機能が集約されていったようです。一応の復元を果たした金沢城はずいぶんさっぱりしてしまっている印象ですが、昔からこの城の景観はこんな感じだったりして。
 

■加賀百万石の栄光

 金沢城があった場所はもともと、北陸に一大勢力を張っていた一向一揆の拠点・金沢御坊が存在していました。柴田勝家を指揮官とする織田氏北陸方面軍が一向一揆や上杉氏を加賀・能登から追った頃、はじめは佐久間盛政がこの地に入りました。
 後に本能寺の変が勃発し、勝家が秀吉との政争をはじめると、利家はもともと寄騎として勝家の下にいたに過ぎないと言う事情もあって、いち早く秀吉に味方しました。賊ヶ岳の戦いを経て勝家が敗死した段階で、ようやく利家は七尾からこの地への栄転を果たしています。
 もっとも、まだ加賀百万石への道は遠く、豊臣政権下にあっての前田家は、どんぐりの背比べ状態の各有力大名の一角を担う程度の位置付けに過ぎませんでした。皮肉にも、利家が亡くなり、利家が晩年しのぎを削っていたまさにその相手である家康の天下になってから、前田家は家康に対して速やかに恭順の意思を示したことを評価され、さらなる加増を受けて親藩・譜代・外様大名の中でも最大の勢力になりました。
 

■戦国の終焉?

 金沢城の改修工事責任者はキリシタン大名として知られる高山右近重友でした。信仰をめぐって秀吉と衝突した重友は、しばらくの雌伏の後に利家の招きで前田家に迎え入れられ、彼が習得していたさまざまな知識や技術を伝えました。すでに定評のあった築城技術もその一つでした。
 もっとも、重友の協力を得たとは言っても、なお前田家の築城技術は決して高いものではなかったらしく、その技術力の限界から高い石垣を築くことが出来ずに、石垣の中ほどあたりに平地を設け、その上にもう一段の石垣を築くという二段構成になっています。攻城戦時には石垣を登ってくる敵に対する対処も想定しなければなりませんが、二段の石垣を登るのは、同じ高さの石垣を一息に登るよりも楽な作業になります。利家の息子利長は、途中に平地を設けた構成の石垣を見て激怒したと伝えられています。もちろん、防御度の著しい低下を危惧しての反応でした。父に従い戦場を駆け巡った利長にしてみれば、看過しがたい軽率だったのでしょうが、すでに世の中の多くが太平の時代に向かって動き始めていたことを象徴するエピソードのようにも見え、興味深いところです。

(2008年03月01日 初掲)























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