江北江南境目の山城。
鎌刃城
所在地
別名
滋賀県米原市番場
:鎌羽城
築城者
築城年
:堀氏
:15世紀


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■近江有数の山城

 この記事を作成している2008年春の段階で、鎌刃城という城の名前はあまり知られていません。一部の城郭ムック本などで良好な保存状態の遺構を残す山城とか、観音寺城小谷城と並ぶ滋賀県屈指の山城として紹介されるようになりつつあり、熱心なお城ファンの中にはこれに注目する人もいるようですが、現在のところこの城がどこに存在するのかさえ分からない人の方が多数派だと思います。鎌刃城は滋賀県米原市は旧中山道番場宿を見下ろす山の上に築かれた戦国山城です。
 鎌刃城の所在地は、大まかに言えば石田三成の佐和山城の裏山のような場所です。佐和山城下には現在国道8号線および21号線が走っており、そこから奥まったところに位置する鎌刃城下には裏通りのイメージが付きまといますが、かつて佐和山の麓には琵琶湖が迫っており、交通事情も現在のそれとはずいぶん異なっていたのでしょう。江北地域と江南地域、さらに美濃方面への交通の結紮点であった番場宿から隣の醒ヶ井宿あたりは古来交通の要衝と言って良い場所でした。自然とこの城の帰属も時々の近隣領主から重視されるようになり、小谷城の浅井氏と観音寺城の六角氏が争っていた時期には両氏の間で、上洛を果たした織田信長と妹婿の浅井長政が仲違いをすると織田氏と浅井氏の間で城の領有をめぐる争いが繰り広げられたと伝わります。

■中山道を扼する境目の城

 もともと応仁の乱の頃に堀氏によって築かれたと考えられている鎌刃城ですが、堀氏は六角氏と京極氏の対立の中では六角方につき、京極勢により幾度か攻められていたようです。やがて京極氏に代わって浅井氏が台頭して来ると、今度は浅井方に着く道を選んだため、城はたびたび六角氏に攻められています。その六角氏は、浅井の同盟者であった織田信長に観音寺城を追われ、しばらくは城をめぐる情勢も小康を得ましたが、やがて浅井と織田が反目するようになると、堀氏は信長に与するようになりました。すると城は、今度は浅井や、信長に敵対する一向一揆から攻め立てられるようになったとされています。境目の城がたどる典型的なパターンを、鎌刃城も踏襲したと言えます。
 浅井氏による鎌刃城攻めは、時期的にはいわゆる信長包囲網が敷かれ、信長が多方面に敵を抱えていた頃の話ですが、やがて織田方の戦力に余裕が出てくるにつれてこの地域における織田の軍事拠点は鎌刃城よりも北の地頭山や能登瀬へと移動して行き、鎌刃城は廃れていったと考えられています。織田氏が領有していた新旧の根拠地・江南と美濃とをつなぐ道を確保するという目的のためには、鎌刃城はやや南に寄っていたようです。

■山城ハイキング

 現在の鎌刃城に残されている遺構は、北と西に厚い防衛ラインを設ける形になっています。尾根筋の形状にもよるのでしょうが、織田氏時代に北方の浅井氏に備えて大きく改修を施されたものとも推定できます。近年の発掘調査で発見された遺構の中には先進的な技法を用いたものもあり、織豊系の技術も導入されていたのでしょう。
 主だった遺構としては大堀切、大石垣、枡形虎口などがあり、これらは山頂付近の曲輪群を取り巻くように、集中的に分布しています。発掘調査の結果復旧されたものもあれば、旧時代よりほぼ手付かずのまま残されているものもありますが、いずれも中世後期から近世初期の山城の特徴を観察する上では格好の材料となっています。
 標高384mの山上に築かれた鎌刃城へは、旧中山道番場宿から登ります。番場宿から山頂までのルートガイドがしっかりしており、極端な急登なども少ないので比較的登りやすい道のりとなっていますが、行程はそれなりに長く、登山時には案内看板に見られる「所要時間60分」の記述を一応念頭に置いていたほうが良いかもしれません。街道時代の面影を残す宿場跡は味わい深いものがあり、近年人気の旧街道ウォーキングを楽しみがてらの登城も一興でしょう。

(2008年05月02日 初掲)





















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