備中の戦国大名・三村氏の居城。
鶴首城
所在地
別名
岡山県高梁市成羽町下原
:成羽城
築城者
築城年
:三村家親
:天文2年(1533)


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■三村氏の台頭

 岡山県高梁市は城下町として有名です。一般に高梁のお城と言えば、山上に現存天守を頂く備中松山城のことを指すことが多いのですが、市内にはこの他にも、戦国山城である鶴首(かくしゅ)城の跡が残されています。
 鶴首城は、元は平安時代末に築かれた城だとも言われていますが、戦国時代になると、備中の戦国大名として成長を遂げた三村氏の持ち城として活用されるようになりました。天文から天正にかけての時期には、毛利氏が実質的な中国地方の覇者となっていましたが、三村氏は毛利氏の支援を受けて備中の支配権を確立したのでした。
 しかし、時を経るにつれてまた、東からは織田信長の勢力が伸張してくるようになります。毛利に織田という二つの強国のはざまに立たされた三村氏は、その去就をめぐって家中を分裂させるに至りました。

■備中兵乱

 この当時、三村氏の本家は松山城を本城としており、鶴首城は傍流によって支配されていました。本家が織田に着いたのに対し、分家側は古くからの義理もあり、毛利氏への恭順を主張しています。この路線の対立により、親毛利の分家・三村親成は一旦鶴首城を追われることになります。しかし、最終的には三村本家が毛利氏により滅ぼされ、親成は鶴首城主に返り咲く事ができました。この一連の戦乱が「備中兵乱」と呼ばれるもので、時は天正2年(1574年)から翌年前半にかけてのことでした。
 ちなみに、長篠の戦いは天正3年5月の出来事。すなはち、同時期の織田領の東側には、未だ古豪武田氏が最大版図と信玄以来の軍団を温存しながら存続していました。長篠で武田氏に大打撃を与えた信長が、以降その戦力のかなりの部分を中国戦線に傾注できるようになったのに対し、毛利氏は本格的な侵攻を開始した織田氏の前に苦しい戦いを強いられるようになります。大きな歴史の流れで見ると、「備中兵乱」のこの時期は、毛利氏が織田氏に対して比較的優位に戦いを進めることができた最後期だったのかもしれません。

■絶えて久しい古城

 鶴首城跡は、城名と同じ鶴首山頂付近に残されており、成羽小学校裏手が登山口になっています。登山口には地元の愛護会組織が手製したらしい鶴首城のパンフレットが用意されており、また登り始めは車でも乗り入れられそうな道になっているため、比較的容易な城攻めを期待してしまいそうになりますが、山頂が近くなるにつれてそれなりの山道になって行きます。 山頂付近は平らにならされており、崩れた石垣や虎口の跡などが残っていますが、全般に遺構はそれほど明瞭ではありません。鶴首城は江戸時代初期の元和3年(1617年)に廃城となったと考えられています。

(2009年12月21日 初掲)















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