今川氏真主従の未来を開いた城。
掛川城
所在地
別名
静岡県掛川市掛川
:雲霧城
築城者
築城年
:今川義忠
:文明年間(1469〜1487)


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■再建天守と現存城郭御殿

 低平地に突出した丘の頂に立つ姿が印象的な掛川城は、今川氏の重臣・朝比奈氏の居城でした。今川氏真が武田信玄と徳川家康の挟撃に遭い、戦国大名家としての今川氏が滅亡すると、今度は徳川氏の手に渡り、やがて家康が豊臣秀吉の命で関東に移ると、この城には山内一豊が入っています。この一豊時代に大規模な改修が行われて近世城郭として生まれ変わったと伝えられていますが、現在再建されている天守は、一豊以降・江戸時代の掛川城を再現したものです。この天守は木造で再建されていて、内部の構造は当時のつくりに近いものとなっています。天守閣内部は、わりあいに簡素な展示コーナーとなっていて、最上階は展望室として利用されています。
 一方、天守の直下にある掛川城御殿は、建造当時のまま現存する城郭御殿です。掛川城は、天守こそ再建天守ですが、現存城郭御殿も各地に残る現存天守と同様に珍しいものであり、掛川城の大きな見所のひとつといえます。こちらは建物そのものにも史料的価値があり、藩政時代にゆかりの品も展示されています。
 

■今川氏真と掛川城

 掛川城内天守丸には、霧吹き井戸と呼ばれる井戸があります。永禄12(1569)年に徳川家康がこの城を攻めたとき、この井戸から霧が噴出して城全体を包み、徳川軍の攻撃を防いだと言う伝説が残されています。岩村城にも同じような伝説が残されており、これはこれで攻城伝説の一類型なのでしょう。
 その頃、掛川城には武田信玄の侵攻によって駿河今川館を追われた今川氏真が、重臣朝比奈泰朝を頼って逃げ込んでいました。そこへ、三河から遠江へと侵攻した家康の軍勢が押しかけてきたのですが、泰朝率いる掛川城は、5ヶ月に及ぶ徳川軍の攻撃を耐え抜いています。実際に霧吹き井戸伝説のようなことがあったのかどうかは定かではありませんが、結果的に家康は、講和を申し込んで掛川城を開城させました。家康を根負けさせた篭城側は、「家康が武田を駿河から追い出したら、氏真を駿河国主に復帰させる」という破格の講和条件を引き出すことに成功しました。開城後の氏真・泰朝主従は、氏真の舅にあたる北条氏政のところに身を寄せています。
 家康にしてみれば、氏真は主筋にあたる人物であり、仮に力攻めで掛川城を攻め落としたとしても無茶な処遇はしなかったのかもしれませんが、ここで家康に屈しなかったことで、氏真は家康に貸しを作ることができ、江戸幕府体制下において高家今川氏として存続していく素地を作ったようにも思えます。戦国武将としての資質には欠ける人物だったと言わざるを得ない氏真ですが、ギリギリのところで家臣にだけは恵まれたのかも知れません。
 

■山内一豊と掛川城

 領国を失ってこの城に立てこもっていた氏真に開城させてからはこの城は家康の支配下に組み込まれました。しかしその家康も、豊臣秀吉が小田原北条氏を滅ぼした時に、北条氏の遺領だった関東へ移っています。家康の手を離れた掛川城にやってきたのが、長年秀吉の下で働いてきた武将・山内一豊です。氏真の場合からもわかるように、もともと要害にして要衝の城として知られている城に六万石で一豊を封じた秀吉の意図は、家康に対する監視・牽制にあったと言われています。
 掛川に入った一豊はその後十年ほどかけて城の改修と城下町の整備を行っていますが、関ヶ原の戦いで家康の東軍に味方した功に報いて、大幅加増の土佐二十四万石に封じられました。一豊は城も町も作りかけのまま土佐に移っていったのですが、掛川城内には一豊に関する展示品が目立ちます。一豊自身は、戦国武将としてはやや小ぶりなイメージがありますが、それでもフィーチャーされるのは『巧名が辻』の効果といったところでしょうか。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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