武田氏対上杉氏係争地の城。
海津城
所在地
別名
長野県長野市松代町松代
:松代城
築城者
築城年
:武田信玄
:永禄3年(1560)


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■海津城と松代城

 訪問した時点では、海津城址は公園としての整備が進められており、入城することは出来ませんでした。2004年の春からは一般公開されているようです。
 海津城行きのときに携行したロードマップも、車載のカーナビも、いずれもこの城のある場所には海津城跡と表記してありましたが、地元では後の時代の呼称である松代城の名で呼ばれているらしく、案内板などの表記もことごとく松代城となっています。松代大本営の松代です。全くと言って良いほど海津城の名前は出てきません。これが結構曲者なので、お出かけの際はご注意ください。
 海津城が松代城と改められたのは江戸時代も100年が過ぎた正徳元年(1711)のことです。松代城という名前は、武田信玄同様、一般に人気の高い真田氏にゆかりの名前で、お城近辺の観光戦略もこの名にあやかってか、真田氏を軸にして展開されているようです。
 

■城と古戦場

 海津城は武田信玄と上杉謙信の合戦で有名な川中島近くにありました。信濃の大部分を領有し、その代償として越後の謙信との衝突を避けられなくなった信玄が、謙信の息がかかった北信濃諸豪族を牽制し、南下して来る上杉軍に対する備えとして武田領信濃の北端に位置するこの地に築かせたものです。海津城城代は知勇兼備の名将として知られ、武田四名臣の一人で、武田二十四将の一人にも数えられる高坂昌信です。
 海津城を語る上でやはりこの川中島合戦を避けて通ることは出来ません。この城はもともと、なかば砦のような出城として築かれたものでしたが、時を経るごとに堅牢な城郭へと改修されていきました。時に永禄3年(1560)のことです。時間が経てば経つほど、信玄の北信濃支配体制が磐石になることを知っていた謙信は、ついに決戦に向けて動き出しました。
 

■川中島決戦

 川中島合戦の中でも最大の激戦となった永禄4年(1561)年の第四回合戦では、妻女山に陣取った上杉軍に対して、武田軍は海津城に入場しています。こうして両軍は相手の出方を探ることになりました。ここで信玄は、武田軍の軍師であったと言われている山本勘助献策の啄木鳥戦法を採用し、別働隊に妻女山の上杉軍背後を衝かせ、山から追い落とされた上杉軍を、八幡原に控える本体とともに挟撃しようとしました。しかし、謙信は武田軍が大きな攻勢をかけてくる事を予想して前もって山を下り、守備が手薄になっている武田軍本隊を攻撃しています。謙信が武田軍に動きがある事を知ったのは、海津城から上がる炊事の煙が普段よりも多かったためだと言われています。左の写真は、現在の海津城址付近から妻女山方向を撮影したものです。
 この戦で武田軍は、辛くも上杉軍を撃退することに成功しました。これ以降武田氏による信濃の支配はほぼ確定し、海津城が大きな動乱に巻き込まれることはありませんでした。城将である高坂昌信の力によるところも大きかったでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)















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