外様雄藩の質素極まる城。
鹿児島城
所在地
別名
鹿児島県鹿児島市城山町
:鶴丸城
築城者
築城年
:島津家久
:慶長7年(1602)


お城スコープ > お城総覧 > 鹿児島城

■薩摩の支配者

 島津氏の出自は渡来人である秦氏だったとされています。さらにその元をたどると秦の始皇帝にまで遡るとも言われていますが、そこまで行くと事実かどうかは少々疑わしくなります。しかし島津氏が、鎌倉時代以来七百年もの長きにわたって薩摩に君臨した押しも押されもせぬ支配者だったことは確かで、その事実からは威風堂々とした風格さえ感じられます。
 七世紀にも及ぶ歴史を誇る薩摩島津氏が、最大の版図を築いたのは戦国時代末の事でした。薩摩・大隈・日向の三州を支配下におさめ、九州の北部を基盤にしていた大友氏や龍造寺氏をまさに風前の灯というところまで追い詰め、九州統一も目前にまで迫っていましたが、その悲願は豊臣秀吉の軍勢を前にして潰えました。しかし結果的に薩摩と大隈、日向諸県郡の領地は安堵されており、豊臣政権下において実力を温存することには成功しています。
 さらに秀吉死後の関ヶ原の戦いでは、西軍に属して徳川家康と対決する形になるも、またしても家名の存続と所領の安堵を取り付け、以後は明治維新まで外様の雄として薩隈および琉球王朝の支配を続けました。七十七万石の表高は百万石の加賀藩に次ぐ大身です。

■近世築城

 室町時代以降の島津氏には同族間の相克などもあって絶対にして安定的な本拠地と呼べるものがありませんでしたが、慶長7年(1602)になって時の当主である家久(忠恒)により鹿児島城が築かれました。この家久は名高い島津四兄弟の末弟ではなく、惟新斎義弘の三男です。その名は叔父にちなむものではなく、家康からの偏諱と島津氏の通字である久を組み合わせたものだとされています。海に近いこの築城場所に関しては父子の意見の対立もあったようですが、結局家久の進取的な意見が通り、この場所に城が築かれました。
 現在鹿児島城址とされている範囲は非常に狭く、かつての本丸と二の丸に相当する部分に過ぎません。もともとこの場所には御殿が配されていましたが、天守等は元より存在しない、館造りの城だったと言われています。往時の鹿児島は、これに加えて背後の城山にあった上山城を詰城としていました。

■島津の「城」

 それにしても七十七万石の城とは思えないほど小規模で質素な城と言わざるを得ません。十万石級大名でももう少し大きな城を築くのではないかとさえ思えてしまいます。城主の実力と城の実態がこれほどまでに乖離しているのは、全国の諸城の中でもかなり特異な例なのですが、一般にこのようなことになったのは、幕府へ恭順の姿勢を示す意図があったためだと考えられています。幕府(というか徳川家康)との関係がこじれかけた関ヶ原の戦いは、築城の前年ことでした。
 同時に島津氏の領内には一国一城令に反する、支城相当の「麓」と呼ばれるものが多数存在しており、それでもって国堅固の領国守備体制を築き上げていたので本城が簡素でも問題としなかったと解説されることも多いようです。現地には「城をもって守りと成さず、人をもって城と成す」との解説も。
 現在の城跡には種種の文化施設が建っており、城郭遺構としては石垣と水堀が残ります。西南戦争の時に西郷隆盛が最後に立て籠もったのが鹿児島城背後の城山だったため、城周辺の石垣の一部には、その時の弾痕が残されています。また城山の山頂は、錦江湾と桜島を一望の下に出来る好展望の地だということです。

(2009年04月25日 初掲)















戻る
TOP