南予有数の山城跡。
河後森城
所在地
別名
愛媛県北宇和郡松野町松丸
:川後森城
築城者
築城年
:河原渕氏?
:建久7年(1196)頃


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■広大な山城

 比較的近年になって、続日本百名城の一に選出された河後森城ですが、さすがの保存状態で、地域としてもこの城の保存と売り出しに力を入れていることが分かる立派な城跡です。歩きやすく整備された登城路を登り詰めると、曲輪の跡らしい削平地に出ますが、段々に同じような削平地が存在しているのが分かり、城の名残を良くとどめています。さらに道標に沿って進んでいくと、主郭にたどり着きますが、ここも帆立柱の跡などが残されると共に、発掘調査時に分かったことが展示されています。国の史跡だけあって、それなりに力を入れて往時の様子に肉薄する試みが行われているようです。このほか、この主郭近くには虎口や小規模ながら石垣の痕跡なども残されており、戦国山城らしさが良く出ています。
 河後森城跡は、現存遺構が存在する区画だけでも結構な範囲に及び、西第十曲輪、東第四曲輪、新城、古城などの名が与えられた曲輪郡が存在します。もちろん西云々、東云々は単独で存在しているわけではないので、顕著な曲輪だけで十数個が存在しているということを意味します。それぞれ西第十曲輪、古城まで行ってみましたが、前者には部分復元された土塁が、後者には尾根筋を断ち切った痕跡がありました。

■軍事拠点としての河後森城

 あちこち歩いてみると分かりますが、城は馬蹄形の尾根に築かれており、若干変形気味ながら階郭式ということになるのでしょう。縄張り図を見る限り、おそらく後期に築かれたであろう新城は、脇の守備が甘くなる本郭の防備を目的としたものだったことが分かりますが、それでも現在の松丸市街方向への防御機構は手薄に感じられますし、天然地形がそこまで急峻とも見えないので、ここがこの城の弱点だったのかもしれません。市街地側とはつまり、伊予の中央部を向く方位です。伊予国内とは反対側、つまり土佐側に防備を固めていたということは、想定していた敵は専ら土佐から攻めてくる長宗我部氏だったということでしょうか。
 良好な遺構を残す河後森城も、その来歴についてはそれほど多くの情報が残されていないようです。松丸駅で入手したパンフレットによれば、もともと河後森城の主は河原渕教忠という人物だったのだそうで、一条氏系の領主だったと伝えられていますが、この地は一条氏と長宗我部氏の係争地となり、ついには長宗我部氏の軍門に下りました。この地は土佐から伊予に抜ける道筋にあたり、河後森城の軍略上における重要性は高かったことと思われます。

(2019年10月10日 初掲)















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