三大水攻めの城。
紀伊太田城
所在地
別名
和歌山県和歌山市太田
:なし
築城者
築城年
:紀俊連
:15世紀


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■秀吉の太田城攻め

 いくぶんかマニアックな気がしますが、日本三大水攻めというのがあるようです。備中高松城攻め、武蔵忍城攻め、そして紀伊太田城攻めがそれです。分かる人には分かる共通点があって、実は全て豊臣秀吉の関係する城攻めです。ただし、高松城攻めと太田城攻めは秀吉自身が指揮官として戦ったもの、忍城攻めは配下の石田三成がによるものと少しずつ状況は異なります。高松城攻めは、本能寺の変勃発により、いわば水入りとなりました。忍城の水攻めは失敗に終わり、三成の武名に傷をつけました。
 そこへ行くと、もっとも分かりやすい形で効果を現したのが太田城攻めだったのかもしれません。水攻めの本質は外部との連絡を遮断する、要するに兵糧攻めにあったとは言え、湖面に浮かぶ孤島のようになった城中は、士気の阻喪も甚だしかったと伝えられます。守兵は時に反撃も試みましたが、一か月ほどで城は落ちました。
 秀吉と水攻めが縁深いと言う事実は、水攻めという金も技術もかかるが、味方の人的被害を抑えられる戦術は、結局天下人級の有力者がなし得るものということの証明になるのかもしれません。逆に言えば、それほどの労力に代えても水攻めと言う選択を採用することになったほどに、この太田城と言う城は堅牢だったということになります。

■太田城の痕跡を求めて

 現在の太田城跡は、JR和歌山駅の東方1劼曚匹里箸海蹐飽銘屬掘△垢辰り宅地化が進んでいます。県庁所在地の表玄関となる駅からほど近いわりには田舎びた雰囲気の場所ですが、微高地上の城であったとか、沼や深田に囲まれた城であったとか、攻め手側不利となる自然地形上の要素も見当たりません。後は人為的な土木工事でどこまで防御力を高められるかと言うところですが、織豊期の土豪級が築いた平城に堅固な防御機構が施されていたのは意外とも言え、太田城が容易に落ちなかった理由にピンとこないところもあります。
 さて、太田城の本丸は来迎寺付近にあったと伝えられますが、城の遺構らしきものは何も見当たらず、境内に太田城址の碑が、隣接地に戦死者を弔う小山塚の碑が建つのみです。小山塚の碑については、元来立っていたところから現在のところに移設されたものなのだそうです。また、寺の北東数百メートルのところには、秀吉が水攻めの際に築いた堤の跡が残されているようですが、付近に地図の類はなく、ひとしきり歩いてみても一目瞭然にそれとわかるものは見つけられませんでした。こちらを訪ねる場合、事前の下調べが必要となるでしょう。

(2015年05月05日 初掲)















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