はかなく消えた天下人の屋敷城。
聚楽第
所在地
別名
京都府京都市上京区多門町
:聚楽城
築城者
築城年
:豊臣秀吉
:天正14年(1586)


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■関白の別邸

 豊臣秀吉の別邸として知られる聚楽第は、彼が関白の職に就いた天正14年(1586)に築かれました。用途に着目して邸宅とされることが多いものの、その外観は城そのものであったと伝えられています。また、従来は「じゅらくだい」と呼ばれてきたこの建物も、近年では「じゅらくてい」と呼ばれる場面が増えているようです。聚楽第の第は邸宅の邸とか、あるいは亭とか言った漢字と同義を表すのだとか。
 その外観および内装は、臣下としての最高位を極め、全国の大名達を束ねる立場にあった天下人の居宅に相応しく豪壮華麗な建造物だったと言われています。そのことを象徴する出来事として、天正16年の後陽成天皇行幸などのトピックがありますが、秀吉の在城中には城内で数々の公式行事も執り行われており、そのためもあってこの城は、単なる権力者の邸宅として以上に、歴史にその名を刻むことになりました。
 後に、城は秀吉の跡を継いで関白職に就いた甥・秀次に譲られます。しかし秀次の失脚と秀吉自身の隠居城である伏見城築城に伴い、聚楽第は無用のものとして破却されました。

■よどみにうかぶうたかたは

 時の権力者の居宅として建造された聚楽第も、現在に至ってはこれといった遺構は残されていません。比較的短期間のうちに建造され、その使用期間もさほどに長くなかった聚楽第の運命を思うと、「うたかたの夢」という言葉が連想され、次いで「なにはのこともゆめのまたゆめ」と辞世に詠んだ秀吉の世界観や人生観に通じるものがあるようにも思えます。 
 聚楽第の記憶を今に留めるものとして、京都市上京区の正親小学校北東隅に聚楽第跡の石碑が建っていますが、工事のための武骨なバリケードによって覆いをかぶされるなど、現代の京都市民からは特別に顧みられることもなさそうです。もちろん、建っている場所の関係もあるのでしょうが。この碑以外では、聚楽第にゆかりがあるとされる門や井戸などの建造物が京都市内に点在しているものの、いずれも伝承の域を出ないものであり、その点からもこの城がうたかたのようにはかない命に終わった城であると言えるのかもしれません。まさしく諸行無常です。
 なお、毛利輝元によって築かれた広島城は聚楽第に倣ったものだと伝えられており、かつての聚楽第の姿をもっともよく今に伝える資料と言えるのかもしれません。

(2008年04月01日 初掲)









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