戦国島津氏の源流を見る城。
伊作城
所在地
別名
鹿児島県日置市吹上町中原
:亀丸城
築城者
築城年
:島津久長
:14世紀


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■薩摩の聖君

 かつて伊作の地に存在した伊作城は、二つの点で特筆に価します。第一に鹿児島県内で最大規模の山城であるということ。第二に島津氏が雄飛する原動力となったキーパーソン、祖父忠良と義久・義弘・豊久・家久の四兄弟が生まれた城であるということです。
 鎌倉時代に薩摩に根を下ろした島津氏は、この地で長い歴史を経るとともに領内各地に分家を興しましたが、戦国時代の頃になると同族間での争いが生じるようになっていました。日新斎(じっしんさい)忠良が生まれた明応元年(1493)は、まさに島津諸家が一族内での主導権を巡って争っている時期でした。
 忠良が生を受けた伊作家は、数ある島津の分家の中でも弱小の一派に過ぎません。彼の祖父と父は、それぞれ家臣に暗殺されたり戦地で命を落としたりしており、そういったところにも伊作家の苦衷が仄見えます。父祖が早死にしたことで、忠良は若くして戦国の世に立ち向かわなければならなくなりましたが、幸い未亡人となっていた母・常盤が一門中の実力者の一人で宗家にも近い血統の相州家運久に再嫁し、忠良は運久の養子となりました。これにより伊作家と相州家の二家は忠良の下に統合されることになります。

■貴久の宗家継承

 同じ頃、やはり有力分家の一つであった薩州家実久が、本宗家をも凌ぐほどの力をつけつつあり、ついには公然と島津一門の盟主になろうと画策を始めていました。宗家の勝久は若年で家督を継承したこともあり、単独で実久に対抗する力には欠け、実久に対抗し得る実力を蓄えつつあった忠良を頼ることになります。この時忠良は、嫡男虎寿丸(後の貴久)が島津宗家の養子となることを条件に勝久に肩入れしています。
 やがて宗家の実権は実質的に忠良・貴久親子のものとなりましたが、同時に実久との対決も10年の長きに及び、父子は時に苦杯をなめながら、ついに紫原の決戦で実久を下しています。島津一門における両巨頭の争いに決着がついたことで、薩摩、大隈、そして日向の各地に割拠していた数々の分家筋も、次第に貴久の下に統一されて行きました。
 こうして忠良と貴久が築いた礎の上に、戦国でも稀有な有能なる四兄弟が、九州統一戦を展開していくことになります。以後の展開、島津氏の前に立ちはだかった敵については九州諸城の項にて。

■鹿児島県内最大級の山城

 島津シンパの目から見ると、どうしても「一族の主要人物が生まれた城」という見方をしてしまう伊作城ですが、前述の通り大小合わせて28の曲輪を持つ鹿児島県内でも最大級の山城という一面も持っています。日置市郊外の山中に築かれたこの城は、伊作家初代にあたる久長によって築かれて以降、忠良に至るまで10代250年の間、伊作家の居城であったと考えられています。とは言え、伊作家そのものは島津一門の中でも末席の方に位置する家であって、簡単に大規模な城を築くほどの実力を備えてはいなかったでしょうから、城が大規模に拡張されたのは忠良時代以降のことだったのかも知れません。
 構造としては本丸に相当する亀丸城の他、山之城、蔵之城、花見城、御仮屋城、東之城、西之城といった曲輪を持ち、各曲輪間は多少の高低差を持ちながら、空堀によって隔てられるような形になっています。南九州の山城を見て回り共通して感じたことですが、伊作城も本州の山城とは少々趣の異なる縄張りを持っています。通路によって曲輪が結ばれているのではなく、曲輪が空堀兼通路で隔てられるような構成、といえば多少は通じるでしょうか。
 ややキャパシティが乏しいものの駐車場を備えており、車での登城も容易、厳しい登りも少ないですが、水平方向への広がりはかなりのもので、全域を歩いて回ろうとすると、それなりの移動量となります。他、土塁なども残されていますが、基本的には曲輪跡=削平地の痕跡を観察する城でしょう。
 なお、亀丸城には忠良、義久、義弘、歳久、家久、そのほかこの地で生を受けた伊作家ゆかり武将・女子の誕生地であることを示す石碑が立ち並んでおり、これもまた壮観です。

(2009年05月16日 初掲)





















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