初めて鉄砲が使われた攻城戦。
岩剣城
所在地
別名
鹿児島県姶良郡姶良町平松
:なし
築城者
築城年
:蒲生氏?
:享禄2年(1529)頃


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■剣の岩山

 大隈国内でも最も薩摩に近い姶良の地に存在した岩剣城は、天文年間に祁答院(けどういん)氏によって築かれたものであるとか、祁答院氏ら姶良郡の国人領主の盟主的立場にあった蒲生氏によって築かれたものだと考えられています。
 後に薩隈日の三州統一を成し遂げて大大名へと雄飛する島津氏の事跡についてまとめた書籍では、しばしば城のあった岩山・剱ノ岡の写真が紹介されているのを目にします。確かに境目の城なので三州統一を目指した島津氏の軍略上重要な意味を持っていたでしょうし、島津義弘の初陣が岩剣城攻めであり、さらにはその攻城戦で初めて鉄砲が使われたという説もあるなど、何かと話題性のある城ではあるのですが、城自体は隈薩国境地帯に位置する小城の一つに過ぎませんでした。にもかかわらず写真が良く用いられるのは、名前そのまま切り立った断崖によって構成されるその山容が、あまりにも印象的だからなのでしょう。私がこの城に興味を持った理由の一つにも、やはりその天然の要害そのものといった山容の影響がありました。

■島津の岩剣攻め

 天文23年(1554)、当時島津氏の軍門に下っていた加治木城の肝付兼盛が、蒲生範清をはじめとする近隣諸豪族の連合軍から攻撃を受けました。加治木城は薩摩本国から見ると飛び地のような場所に位置しており、両者の間を隔てていた反島津の豪族連合が加治木城を攻めたのも当然の成り行きだったのかもしれません。
 この報を受けた島津氏側は、加治木城下に後詰として赴くのではなく、祁答院氏の城であった岩剣城を攻囲しました。そうすることによって加治木城を攻撃している軍勢を反転させようと目論んだものと思われますが、果たして戦局はその通りに動きました。あらかじめ迎撃策を練っていた有利もあってか、島津軍は岩剣城の救援にやって来た敵勢をよく退けています。敵軍の中に長らく孤立した城兵の士気は次第に低下しました。そして、ついには蒲生の主力部隊までもが打ち破られるのを見るに至って、守備兵たちは城を捨てて逃亡しました。いわゆる「大隈合戦」の始まりでした。
 落城後の岩剣城は義弘の管理下に置かれましたが、もともと不便な山上に築かれた城だったこともあり、代わって平松城が周辺統治のために築かれました。岩剣城が廃城となったのは、それからしばらく経ってからの事なのでしょう。

■小規模な山上城郭

 岩剣城へは、山麓岩剣神社を取っ掛かりにして登ります。神社の左手奥に延びる舗装道路へと進み山腹あたりまで登ると、左手の茂みに「岩剣城大手入口」の標札があり、ここからが本格的な登城路の始まりとなります。
 単なる自然石なのか、あるいは石垣などが崩壊したものなのかは定かではありませんが、大きな石がゴロゴロと転がる道です。斜面の崩落を防ぐ目的で人為的に植えられたものなのか、周囲には竹林が広がっています。倒竹も多くあまり手入れが行き届いているとは思えない道のりですが、全く保全作業が行われていないわけでもなさそうで、急な登りの箇所は鎖場ならぬ「ロープ場」になっています。
 格別高さのある山でもなく、比較的急な登りで高度を稼ぐ事もあって、「大手入口」の標札から20分弱で山頂付近を削平した主郭部に到着します。南西から北東に痩せ尾根が延びる山容であるため、主郭は尾根上に連郭式に配置されていますが、広さはさほどのものではありません。一部石垣も残存しています。山頂は一部を除き木立に覆われているので、展望は期待できません。曲輪の縁に近づくと山麓から眺めたものそのままの断崖を覗くことが出来、その天嶮ぶりをあらためて実感できますが、総じて一国人領主の拠点に相応しい規模の城跡と言えるでしょう。ただし、シラス台地上に築かれた低平で独特の縄張りを持つ南九州の山城の中にあっては、東国的な特徴を見せる正統派の山城なのかもしれません。

(2009年03月16日 初掲)





















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