両川・吉川氏苦悩の城。
岩国城
所在地
別名
山口県岩国市横山3丁目
:横山城
築城者
築城年
:吉川広家
:慶長6年(1601)


お城スコープ > お城総覧 > 岩国城

■錦帯橋と岩国城

 錦帯橋は、日本三名橋の一つとして知られます。そしてその錦帯橋を前景として山上に聳え立つ岩国城は、その風景の印象深さもあってか、財団法人日本城郭協会による日本百名城の一つに選ばれています。
 城は近世城郭の部類に入るもので、安土桃山の末年の慶長6年(1601)になって、着工の槌音を響かせたものです。この地での築城を志したのは、吉川広家。「毛利両川」として知られた吉川元春の三男で、毛利宗家の家老という立場にありました。
 時あたかも関ヶ原の戦いの翌年。実質的に徳川家康と石田三成の争いであったこの戦いに、毛利輝元は西軍の総大将として担ぎ出され、結果として祖父元就以来の領地の多くを失うことになりました。そしてこの時期の毛利氏の迷走の背後には、広家の暗闘があったとされています。

■忠義と不忠

 国を二つに割っての争いであったにせよ、本来毛利氏にとってはそれほど深入りする必然性も無かった関ヶ原の戦い。しかし、実力では家康のはるか格下になる三成は、家康と対して見劣りのしない大将として、中国の太守・輝元に白羽の矢を立て、これを担ぎ出すために破格の条件を提示したと言われています。これには毛利家中の意見も割れ、毛利の外交面に大きな影響力を持っていた安国寺恵瓊は、西軍としての参戦を主張しました。
 一方で、少なからぬ重臣たちは東軍への助力を主張し、家中の実力者であった広家は、事実上東軍派の代表者となりました。実際に広家は、東軍とのつなぎに心血を注ぎ、仮に東軍勝利となったならば、これに弓を引いた者として厳しい処断はまぬがれないであろう主家の安泰を条件に、東軍の消極的協力者という立場に身を置くことになったとも伝えられています。
 果たして戦いは東軍の勝利に終わり、家康は普通なら改易でもおかしくない輝元に、広家の恩賞となるはずであった防長二カ国を与え、家名の存続を許す決断をしたと言われています。反面、主家の方針に反する行動を取った広家を、毛利家中における裏切り者と見る風潮もあり、その評価はまさに毀誉褒貶相半ばすると言ったところです。
 戦後の広家は、実際は毛利氏の家臣でありながら、三万石の所領と共に岩国城を有する形になった上、後年幕府からの認証も受けて独立大名のような体裁を整える複雑な立場になったため、これがかえって彼の評価を貶める要因になったとも言えます。

■岩国の象徴

 延宝元年(1673)に架けられた錦帯橋は、まさに岩国城と城下を結ぶ橋でした。藩政期には庶民では渡ることが出来なかったこの橋も、現在では入橋料を支払って渡ることが出来るようになっています。橋を渡った先の吉香公園はすでに岩国城の城域となっており、かつては城の防衛と水防を兼ねたと思われる御土居や、城主の居館が存在していました。
 山上の詰城部分には、今日ロープウェイで登ることが出来ます。文明の利器に頼れば数分の道のりも、歩いて登ろうとすればかなりの時間を要することは明らかで、近世に入ってから建てられた城にしては険しい立地に築かれた城という印象があります。前時代的な要害だった山上部分は、完成から十年と経たないうちに元和の一国一城令を受けて廃城となっています。
 今ある天守閣は昭和37年(1962)に外観復元された鉄筋コンクリート製のもので、従来の天守台からは外れた場所に建っています。どうも山麓からの見栄え重視で再建の場所が決定されたようですが、おかげで残存していた天守台遺構がほぼ無傷で残ったのは幸いです。ただし、今見られる天守台も大部分は復元によるものです。
 天守閣内部には刀剣や甲冑が展示され、その運用は昭和に入って再建された多くの天守閣と共通していますが、ここから見下ろす錦帯橋と岩国の町並みは、しみじみと旅情を誘います。

(2010年11月06日 初掲)





















戻る
TOP