甲斐の東方を守る岩山の城。
岩殿山城
所在地
別名
山梨県大月市賑岡町畑倉
:岩殿城
築城者
築城年
:小山田氏?
:享禄5年/天文元年(1532)


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■大月の岩山

 岩殿山城のことは、それとは知らず目に留めている人もかなり沢山いるのではないかと思います。JR中央線大月駅の周辺から、あるいは中央自動車道大月ジャンクションよりも少し東京側から、もちろん国道20号線甲州街道の大月市街からも見える巨大な岩盤の露出した山が岩殿山で、戦国時代この山に築かれたお城が岩殿山城です。いつ頃から城らしきものがあったのかについては不明ですが、9世紀末には天台宗岩殿山円通寺として開山され、その後600年ほどは修験道の修行場として利用された記録があることから、この天嶮自体は古くから知られていたと思って間違いないでしょう。これだけ街道に近いところにあるのだからそれも不思議ではありません。天文元年(1532)には郡内(現在の山梨県南東部)の領主であった小山田氏により、城郭としての本格的な利用が始まったと考えられています。
 小山田氏はもともと、甲斐の守護であった武田氏に対して敵対的な姿勢を見せていましたが、最終的には時の当主小山田信有が武田信虎の妹を正室として迎えることで親類衆として武田に取り込まれ、その家中で独特の存在感を保った一族だと言われています。そのためもあって岩殿山城は小山田氏が独自に築いた城であるとの説もありますが、この地方の関所及びその他の要所を武田氏が直轄支配していたという記録があること、そもそもこの場所が関東地方と甲斐とを結ぶ交通の要衝であったことから、周辺統治の要である城も武田氏直轄の城で、そこに小山田氏が城代として入っていたとする解釈もあります。現地を訪ねるまではまるで土地勘がなかったので分かりませんでしたが、岩殿山城から北条氏が築いた関東屈指の山城として知られる八王子城までは大げさに言えば指呼の距離にあり、個人的には武田氏直轄支配説に一票を投じたいところです。

■勝頼が最後に目指した城

 武田氏も小山田氏もそれぞれ代替わりし、武田信玄の下に統治されていた間の甲斐は平和そのものでしたが、信玄が没して勝頼が甲斐の実質的統治者となり、天正3年(1575)に三河国長篠で織田・徳川連合軍に大敗を喫すると、武田氏の前途にはにわかに暗雲が立ち込めます。長篠から、間に御館の乱などの事件を挟んだ天正9年(1582)。武田領信濃と織田領美濃の通路となる木曽谷を領有していた木曽氏が織田方に寝返ると、信長は家康と謀って木曽口、伊那口、そして駿河から、雲霞の如き大軍を武田領へと侵攻させました。短期決戦に臨む布陣であり、武田軍は高遠城など一部の城で奮戦をみせたものの瞬く間に瓦解し、ついには甲斐本国が敵から侵略されるのも時間の問題と言う有様になってしまいました。追いつめられた勝頼は、どうにか完成が近付いた新府城を放棄し、より堅固な要害の地へと落ち延びる事を決断します。勝頼には二つの道がありました。真田昌幸の守る上州岩櫃城(昌幸の提案した落ち延び先には上田城・戸石城説もあり)か、小山田信茂の岩殿山城か。岩殿山城も岩櫃城も、「甲陽軍鑑」の中で駿河久能城と共に並び賞される天下の堅城です。勝頼の選択は岩殿山城でした。しかし結果的には信茂の裏切りに遭い、勝頼とその嫡子・信勝は岩殿山城を目前の天目山中で自害し、戦国大名甲斐武田氏は滅亡の最期を迎えました。

■孤高の峰より望む

 結果論的に言えば、この時の勝頼は真田を頼った方が良かったのではないかと思えてしまいますが、実際に岩殿山城を訪ねてみると、彼が最後の最後でこの城に活路を見出そうとしたのも分かるような気がします。もちろん、近付く者を拒むかのような巨大な岩盤の威圧感と、それに守られて相当に堅固であっただろう城の造りによるところありますが、城の本丸から望む郡内地方は広い平地は少なく、甲府盆地方面から城下への移動路としては狭隘な谷間の道しかなく、地理不案内な織田の大軍を、少数ながらも地の利がある武田軍がゲリラ的に攻撃し、士気の阻喪を待つという戦術を思い描くのが容易いのです。信長が甲信戦線に投入した大軍は当時の国内情勢を見れば長期的に維持できるものだったとも考えにくく、ある程度の期間を粘ることさえできれば再起の道もまだ絶たれはしないというのが、勝頼の思いだったのかもしれません。
 息を切らしながら登る岩殿山城の山頂近くには、自然石を利用した揚城戸跡があり、「岩城」とでもあだ名したくなる岩殿山城のワイルドな印象をより一層強調しています。登り口も限られた岩盤上のやせ尾根を削平した本丸跡には烽火台跡と考えられる区画が残されています。この城は関東地方からの人や物ばかりでなく情報までも、さまざまな流れが甲斐に入る直前で集約される結束点に位置していたのが改めて実感されます。
 本丸付近には立ち木も少なく、岩殿山の四囲に目立った高山がないこともあり、天気が良ければ、何一つさえぎるもののない富士山の姿を遠望する事ができ、ハイキングコースとしても及第点を与えられる山城と言えます。

(2008年04月09日 初掲)



























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