独眼龍、若き日の城。
岩出山城
所在地
別名
宮城県大崎市岩出山城山
:岩手沢城
築城者
築城年
:氏家隆継
:元亀4年/天正元年(1573)


お城スコープ > お城総覧 > 岩出山城

■独眼龍の戦い

 永禄10年(1567)に米沢城内で生まれた伊達政宗は、天正12年(1584)に若くして父・輝宗から家督を譲られると、さまざまな苦難を経ながら周辺の敵対勢力を切り従えて行きます。しかし、時代はすでに豊臣秀吉の天下となっていました。秀吉は天正15年(1587)に関東以北の地域に向け、大名間の私闘を禁じる惣無事令を発していました。政宗の戦いは、秀吉の下した命令に違反するものだったのです。
 天正17年には、東北南部の覇権をかけて会津黒川城の芦名氏と、磐梯山の麓にある摺上原で決戦に及びます。両軍死力を尽くしたこの戦いは伊達軍の勝利に終わり、会津を手に入れた政宗は東北に一大版図を築き上げます。宿敵芦名を倒した政宗は、勇躍してその居城黒川城に入ります。ところが当時の芦名氏はすでに秀吉の傘下に下っており、これを攻め滅ぼす事は秀吉に対する反逆を意味するものでした。いかに東北の覇者と言えど、すでに日本の大半を掌握した秀吉が相手ではまともな勝負にはなりません。結局政宗は秀吉の小田原攻めに参陣し、手に入れて間もない会津と黒川城を召し上げられた代わり、家名の存続を認められました。
 

■父祖伝来の土地を去り

 秀吉は小田原役において、関東以北の地で自分に対し恭順の意を示す者とそうでない者を峻別、小田原北条氏を攻め滅ぼしたのは言うにおよばず、小田原に参陣しなかった陸奥の豪族・葛西氏や大崎氏の領地を没収しました。いわゆる「奥州仕置」ですが、葛西・大崎の旧臣の中にはこの処分に不満を持つ者があり、彼らはついに秀吉に対して反乱を起こしました。これが葛西大崎一揆の始まりです。政宗は、新たに会津に入った蒲生氏郷と共に一揆の平定にあたることになりましたが、後にこの一揆が政宗本人に扇動されたものだったという疑惑を持たれるようになります。政宗は秀吉に対して弁明を行い、どうにかそれは受け入れられたものの、旧領を取り上げられ、葛西・大崎の旧領へ国替えとなる論功行賞を行われます。表高では加増されたとは言え、父祖の代からの土地から切り離される国替えは、決して易々と受け入れられるものではありませんでした。
 天正19年(1591)、こうして米沢城を離れる事になった政宗は、新領地に新たな居城を設ける必要に迫られました。そして、この時、同地に入っていた徳川家康のすすめにより、当時岩手沢城と呼ばれていたこの城を改修して居城とすることにしています。名を岩出山と改めた城下には、米沢以来の家臣と町人が移り住みました。
 もっとも、岩出山城は政宗の領地の中でも北西端のほうに位置しており、城下町も拡張性に乏しかったため、10年後の慶長6年(1601)には新たに仙台城を築いてそちらに移っています。以後の岩出山城は、元和の一国一城令後も城ではない「要害屋敷」として、明治維新まで存続しました。
 

■現在の岩出山城

 某戦国シミュレーションゲーム、言ってしまえば「信長の野望」に感化され、岩出山城と言えばかなり巨大な山城をイメージしていたのですが、後に「要害屋敷」という屁理屈のような名称でまかり通ってしまっていただけあって(?)、城としての規模は後年の仙台城には比べるべくもなかったようです。少なくとも、現在の城山公園からは巨大城郭の面影を偲ぶ事はできません。基本的にはかつての郭などの地形を利用して公園整備されているようですが、最近流行している本物志向の復元城郭を目指していると言う雰囲気ではなく、山自体が丘程度のものであることと相まって、本当に「裏山の公園」と言った雰囲気で、城跡としては少々物足りなさを感じるのが正直なところです。城跡の一角には平服姿の政宗像が立っており、「平和像」と呼ばれているようです。これはもともと仙台城にあったものだと言うこと。
 なお岩出山城内二の丸には、元禄4年(1691)になって学問所が建設されました。これに先立ち火災のため二の丸の建物が消防したのを受けてのことで、当初は春学館と呼ばれていました。翌年には城外に出され、名も有備館と改めます。現在も寄棟茅葺書院造りの建物と庭園が残されており、観光向けには城跡よりもこちらがメインとなるでしょう。また、岩出山の町それ自体にも小京都を思わせる情緒があり、城の周辺を中心に散策してみるのも良いでしょう。
 

(2008年03月01日 初掲)





















戻る
TOP