吾妻を見下ろす真田の城。
岩櫃城
所在地
別名
群馬県吾妻郡東吾妻町原町
:なし
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■岩山上の城

 甲斐武田氏の戦国時代を記録した「甲陽軍鑑」には、名城として三つの城が例示されている。そのいずれもが岩盤の露出する険阻な岩山に築かれた城であり、「軍鑑」の築城思想や軍学上のバックボーンを知る上では格好の材料となっている…。そういう話を耳にして三城を回り始めたのが、2008年の春です。そして春の段階で三城のうち二城(岩殿山城久能山城)を立て続けに訪ね、後はここで紹介する岩櫃城を残すばかりとなっていました。実際に岩櫃を訪ねたのは、二城攻略から半年近くが経った初秋のことです。
 その名に違わぬ独特の山容を見せる岩櫃山は、吾妻八景を代表とする景勝なのだそうですが、この山に城が築かれたのは15世紀のことだったと考えられています。築城者については学説の変遷があるようで、現地案内板では鎌倉初期の吾妻助亮の築城だとし、古い時期の資料には斎藤憲行によるものだとしているものが目立ちますが、近年では真田氏によって築かれたものだとする説も注目を集めているようです。いずれにせよ、「軍鑑」の三名城が共に武田氏カラーの色濃く現れた城であることを思い合わせれば、主家の意を受けた真田氏によって築かれたか、そうまで言い切れないにしても、真田氏が城主を務めていた時代に大々的な改修を受けたことはほぼ確定的でしょう。

■真田一族と岩櫃

 定説では斉藤氏が築き、真田幸隆によって攻略されたと言うことになっている岩櫃城ですが、吾妻地方は真田氏の本拠地である真田郷から、上野側へ鳥居峠を越え、山間の道を進んでいくことでたどり着きます。現在では道沿いに鬼押ハイウェーや草津温泉などが点在し、山奥ながら観光地化が目立つ地域ですが、戦国の頃であれば、山国である甲信から関東平野へと進出するための限られたルートの一つでした。
 もともと、信玄の父・信虎によって本領を追われ、上州に逃れていたという経緯を持つ幸隆ですから、岩櫃周辺の地理には明るかったことでしょう。代々智謀をもって知られた真田一族は、この城を本拠地として上州の攻略に奔走する一方で、信玄から故郷真田郷の属する上田地方の領有を認められています。
 こうして上信国境地帯に重きを成した真田氏でしたが、幸隆から代替わりした信綱の代に大きな悲劇が訪れます。天正3年(1575)、信玄亡き武田氏、その跡を継いだ勝頼に従軍して三河長篠城の攻略に赴いた信綱と弟・昌輝は、世に言う長篠の戦で戦場の露と消えました。真田の名跡は武藤家の養子となっていた昌幸が真田姓に復して継ぎます。昌幸は父や兄に劣らぬ才能を発揮して上野攻略を進めましたが、長篠での敗戦をきっかけに、主家・武田氏の勢力は三遠濃から大きく後退します。
 そして天正10年(1582年)。ついに織田信長は武田氏との決戦を期して大軍を駿河・信濃・甲斐へと進めました。その怒涛の進軍に抗し切れなくなった勝頼は、真新しい新府城を放棄して別の落ち延び先を求めることになりますが、この時に昌幸が自領の岩櫃城への退却を勧めた逸話は良く知られています。史実では、勝頼は小山田信茂の岩殿山城へと落ち延びることを選択し、笹子峠の辺りで信茂の謀反に遭うと、自害して果てています。

■甲州流の城跡

 武田氏滅亡後、独立大名となった昌幸は上田城を築いてそちらを本拠地とし、武田滅亡後間もなく本能寺に倒れた信長の後継者となった羽柴秀吉に恭順の意を示すと共に、徳川家康や北条氏政と敵対しています。岩櫃城は上田城と上野沼田地方の真田領を結ぶ中継点の役割を担ったことと思われますが、元和の一国一城令を受けて廃城となったと言われています。存続時期は比較的に長いものの、実際に現地を訪ねてみると、前線の城ではないためか築城術は戦国時代の武田流を引きずっている感があり、最後期まで改修が重ねられたと言う雰囲気ではありません。
 岩櫃山と言うとどうしてもその切り立った岩盤に目が向きます。こちらには天狗の架橋とか天狗の蹴上げ岩などと言った岩櫃登山のハイライトとも言える難所が点在しますが、城中心の見方をすると、これらはあくまで搦め手を守る岩山という位置づけに過ぎません。岩櫃城そのものは岩櫃山の北東中腹に存在しており、大手は現在のJR吾妻線群馬原町方面に当たります。意外なことに、現在でも城の直下近くにまで集落が広がっており、急峻な山岳地帯に築かれた山城という印象が希釈されます。
 現在岩櫃城址には、広範にわたる曲輪跡が良好な状態で保存されているのを中心に、竪堀や枡形虎口の跡などが残されています。

(2008年10月26日 初掲)



























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