南部氏による津軽支配の要となった城。
石川城
所在地
別名
青森県弘前市大字石川
:大仏ヶ鼻城
築城者
築城年
:曽我道性
:元弘4年(南)/建武元年/正慶3年(北)(1334)


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■津軽支配の柱石

 南部氏は、陸奥に入って以来、低迷した時期こそあったものの、16世紀には戦国大名へと変貌を遂げました。根城の項でも少し触れたとおり、戦国時代の南部氏には、嫡流・庶流を会わせていくつかの系統が存在していましたが、三戸城に本拠を置いた南部信時は、周辺地域を切り従え、戦国大名南部氏の礎を築きました。
 以後、南部氏の全盛時代となる晴政が出る頃までに、自領に組み込んだ各地に一門の将を配置し、その地歩を固めていきました。石川十三館の一つと言われ、津軽支配の要と目された石川城に入った石川高信もまた、晴政から見て叔父に当たる人物であり、南部氏が、三戸城から遠く離れた津軽の地を治めるのに、一方ならぬ功があったと伝えられています。
 逆説的には、高信の存在があったからこそ、南部氏は津軽地方を支えられたのだとも言えますが、皮肉なことに、そうした南部氏の津軽支配体制に終止符を打ったのが、やはり南部氏の一門だったとも言われる大浦(津軽)為信でした。石川城にあった高信を攻めて自害に追い込んだ(異説あり)為信は、浪岡城をはじめとして、燎原の火の如く津軽諸城を攻め滅ぼし、やがては津軽藩を開くに至ります。

■大仏公園

 最初に石川城を築いたのは、南部氏と同時期に陸奥に入った曽我氏だとされます。建武元年(1334)に築かれ、それがいつの頃に南部氏の支配下に置かれるようになったかは、詳らかではありませんが、おおよそ石川高信登場の前後のことだと考えられています。城そのものは、津軽氏に奪われた後も江戸時代初期まで存続しましたが、津軽氏が弘前城を築き、津軽藩としての体裁を整えた慶長16年(1611年)に廃城となりました。
 石川城は、一名を大仏ヶ鼻城と言いますが、現在はこちらの異称の流れを受け、大仏公園と言う名の公園として整備されています。公園ながら起伏に富んだ地形は、いかにも戦国期の城らしいところではありますが、公園整備により生じた地形と、旧来の城郭遺構の区別が判然としないのが惜しいところです。
 当地を訪ねても、城跡としての来歴を記した案内板の類はほとんど存在せず、格別の関心を払う人以外にとっては、そこが城跡であったことすら忘れられてしまいそうな、石川城です。

(2012年02月21日 初掲)









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