藤堂高虎の水際城。
今治城
所在地
別名
愛媛県今治市通町3丁目
:吹揚城、美須賀城
築城者
築城年
:藤堂高虎
:慶長12年(1607)


お城スコープ > お城総覧 > 今治城

■東予の鎮め

 日本のお城の中には「日本三大○城」などと呼ばれるものがあります。ここに紹介する今治城の場合も、讃岐高松城、豊前中津城と並んで「日本三大水城」とか「日本三大海城」などと呼ばれたりします。燧灘に面して建ち、瀬戸内の水を堀に引き入れるこの城は、慶長7年(1602)に藤堂高虎によって築かれたものです。高虎は愛媛県内に、今治城の他に宇和島城を残していますが、関が原の戦いにおける功により、宇和島八万三千石に東予の十二万石を加増され、伊予半国二十万三千石に進んだのでした。
 加増に伴って高虎は、かつて福島正則が居城していた国府城に移りましたが、何分古い時代からの山城だったのに加え、新城主が築城の名手で鳴らした高虎だったものですから、東予が新しい時代を迎えるにあたっては御役御免となりました。高虎が新しい城地に選んだのは、当時今張浦と呼ばれていた、現在で言う今治の地でした。

■海に浮かぶ城

 今治城の竣工には二年余の歳月を要したと言われています。慶長9年に完成した今治城は、まるで海上に浮かぶがごとき威容を誇り、地勢的には瀬戸内の海上交通を扼する要衝に位置するなど、まさに瀬戸内の雄藩を象徴する名城となりましたが、その事で幕府に睨まれたのか、高虎は今治在城七年目にして伊賀伊勢へと国替えになりました。この時高虎が何を思ったかは定かではありませんが、外様大名の多くが江戸から遠い西国へと配置されたことを思えば、江戸に近づくこの転封は栄転と言えるのかもしれません。
 高虎が去ったあとの今治城には、養子である藤堂高吉が二万石で入りましたが、寛永12年(1635年)には高吉も伊賀へと転封となりました。
 藤堂氏が去った後、今治城には高虎と入れ替わりの形で伊勢から移された松山藩主の松平定行の弟定房が入り、この松平氏の時に明治維新を迎えました。

■復元された今治城

 今治城は天守を持たない城だと言われていた時期がありました。近年では、高虎の国替えの時に丹波亀山城へと移築されたと考えられるようになりましたが、もともと影の薄い天守だったためか、現在の今治城址に建つ復元天守は、必ずしも往年の亀山城天守を正確に復元したとは言えない、模擬天守と呼ばれるものに近い態様で建設されているようです。現在まで丹波亀山城天守=創建当時の今治城天守の写真が残されているものの、昭和築城の天守閣は亀山城のそれに比べればオリジナルにはなかった装飾が多く付属しています。古写真に見られる亀山城は、ちょうど肥前島原城のように破風を持たない層塔型の城でした。
 そういう意味ではやや重厚さに欠ける恨みもある今治城ですが、水上に浮かぶかのように残された石垣の上、天守閣をはじめ櫓や門など一通りの建物が復元された様には、趣深いものもあります。

(2008年05月28日 初掲)















戻る
TOP