境目の城から銀山支配の拠点へ。
生野城
所在地
別名
兵庫県朝来市生野町口銀谷
:なし
築城者
築城年
:山名時熈
:応永年間(1394〜1428)


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■ゴールドラッシュ、シルバーラッシュ

 戦国時代、各地の有力大名たちはこぞって鉱山の開発に力を入れました。よく知られているのが武田信玄による鉱山開発でしょう。ライバルである上杉謙信のお膝元である佐渡には佐渡金山がありましたが、これは江戸時代の開鉱だったため、謙信の時代には採掘がおこなわれていませんでした。南蛮人たちをして「黄金の国・ジパング」と言わしめた黄金は、こうした鉱山経営の産物だったわけですが、生野銀山は石見銀山と並んで重要視された銀山の一つです。石見銀山における山吹城がそうであったように、生野城も銀山支配のための城であったとして良いでしょう。
 生野城は、もともと山名氏系の城でした。元来が播磨と但馬の国境近くに位置する「境目の城」であったため、戦略上の重要性を有していましたが、戦国時代になって生野銀山で本格的な採掘が開始されると、城は以前にも増して重要性を帯びることになります。山名祐豊は、山城の麓に合わせて平城を築き、城の防備を固めたと伝えられています。
 やがて、古豪・山名氏も新興勢力であった織田氏の攻勢を受けるようになります。つまりは生野城も織田氏によって奪取されました。その支配下に置かれてからの生野城の存在意義は、軍事拠点としての山城よりも、山麓に築かれた銀山経営のための平城の方に比重が移っていきました。さらに後の時代の生野代官所は、この平城部分を基調としていました。

■生野を扼する城

 さて、銀山そのものは城からもさらに奥山に分け入ったところに営まれていましたが、城のあった古城山自体も多少なりと銀を産したようで、城跡に通じるびわの丸健康公園の片隅には、間歩(坑道)の跡も保存されています。古城山は、城山としてはわりと背高の部類に入ります。登城口となる公園から30分ほどをかけて山頂主郭部に到着する道のりは、ちょとしたハイキングコースの趣があります。
 山頂周辺は段々に削平されています。また、おそらくは石垣の成れの果てなのだと思われる石も残存しており、古城の面影を色濃く残しています。とは言え、指定史跡級の遺構保存状況には一歩及ばないといったところでしょうか。虎口の跡らしきものもあったのだけれど、特に何の解説もなかったため、本当にそうであったのか、確証はありません。山頂からの眺めは良いので、半分史跡・半分ハイキングコースとして歩くことを予期して整備されたものなのかもしれません。
 なお、平城に端を発する代官所跡は山麓の生野小の近くにあります。以前の工事で堀跡が見つかったことがあったようですが、保存のため埋め戻されたとのこと。現在の生野小近辺では、城跡や代官所としての歴史より、生野義挙碑のほうが良く目立ちます。ずっと時代の下った幕末期には、ここ生野の地で尊攘派の反乱があったようです。

(2014年10月13日 初掲)















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