甲越抗争、越後側最前線の城。
飯山城
所在地
別名
長野県飯山市飯山
:なし
築城者
築城年
:上杉謙信
:永禄年間(1558〜1570)


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■武田信玄、北信濃に進出す

 上杉謙信の居城だった春日山城は、信濃から上越地方へと山を越えてきた先にありました。北国脇往還、いわゆる北国街道の行き着く先で、要するに交通の要衝を扼する城だったのです。現在も春日山上直下で上信越自動車道と北陸自動車道がクロスし、また春日山城下の直江津駅でJR信越本線と北陸本線が合流している事実は、示唆に富んでいるでしょう。
 それだけに、謙信の宿敵とされる武田信玄が信濃に進出し、燎原の火のごとく領土を北方に拡大していったことは、謙信にとって到底看過できることではありませんでした。このような経緯から両者が衝突に至ったのが川中島の戦いでしたが、数度の戦いを経て、善光寺平周辺がいつしか信玄の領地に組み込まれていたことは、動かしがたい事実でもありました。そこでまず、戦での勝利以前に、春日山城を武田の脅威から守る盾が必要となります。要衝に位置する春日山城は、その立地ゆえに信濃方面からの侵攻に対して脆い一面を持ち合わせた城でもありました。
 こうして信濃の出口にして越後への入口とも言える場所に築かれたのが、飯山城です。

■北信を巡る争い

 飯山城の古くは、泉氏の居館だったと伝えられています。泉氏は元来、北信濃の小領主でしたが、信玄の進出により信濃に割拠していた多くの領主たちは所領を追われ、ついには北信の地まで信玄の攻勢に晒されるようになっていきます。こうした中で、信玄の脅威に曝された者たちは、越後の長尾景虎=上杉謙信を頼るようになっていきます。その理由は二つ。上杉氏自身が相当の実力を備えていたことと、謙信自身が信玄の北信進行に関して準当事者と言える立場にあったことです。繰り返しになりますが、こうして勃発したのが川中島の合戦だったのですが、総体的に見れば、この戦いは信玄にとって利するところの多い戦いでした。謙信の目論見には、北信濃から信玄を駆逐することが含まれていたように思われますが、結局それはかないませんでした。永禄年間に入る頃には、北信の小領主たちは軒並み謙信麾下となり、飯山城も謙信の持ち城同然になっていました。飯山城の改修が進められたのはこの時期だと考えられています。
 もっとも、信玄側にとっても謙信との武力衝突からはさほど得るものもなく、北信濃における上杉と武田の住み分けは自然と進んでいきました。飯山城攻略は、武田方にとっての第一優先事項ではなくなっていました。

■段丘上の城跡

 都合5回行われた川中島の戦いで、最大の激戦となった第4次合戦は朝霧の中でその幕を開けたといわれています。永禄4年(1561)旧暦9月10日の事で、現在の暦で言えば10月中旬に当たりますが、まさにその時期の早朝、合戦当時の川中島を連想させる濃霧の中、飯山城へと向かいました。
 謙信が城砦化を進め、その後継者景勝によって城下町の整備が行われた飯山城は、上杉氏の会津転封後は関氏、皆川氏、堀氏、佐久間氏、松平氏、永井氏、青山氏、本多氏と様々に主を変えましたが、明治まで存続しました。近代まで破却を免れた飯山城址も現在では、神社や弓道場、市民会館などを備えた公園になっています。
 千曲川の河岸段丘上にある公園からは、南北に連なる梯郭式縄張りの名残はうかがえるものの、飯山城址の周辺には城下町が発展したものと思われる街並みが広がり、山城にあるような、野趣あふれる山中に人手が入った痕跡を認めた時ほどの強い印象はありません。一部に残る石垣や堀跡と復元された城門が、この場所がかつて城であったことを主張していました。

(2008年11月15日 初掲)





















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