畿内の要衝に位置する城。
飯盛山城
所在地
別名
大阪府大東市北条
:飯盛城
築城者
築城年
:佐々目憲法
:建武年間(1334〜1338)


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■「太平記」の舞台

 芥川山城の項で、その前半生について紹介した戦国武将・三好長慶が晩年近くを過ごした城、飯盛山城です。
 もともとは建武年間に佐々目憲法によって築かれた城だと言われ、南北朝の動乱期について記した「太平記」にもその名が見られます。高師直と楠木正行(まさつら)らが戦った四條畷の戦いは飯盛山城山麓の四条畷市内で行われたと考えられていますが、その際にも飯森山城は北朝方の拠点として使われています。
 そうしたゆかりもあって飯盛山城跡には正行像が建立されていますが、若い世代への知名度はいまいちなのか、父親である楠木正成の像と間違えられることも珍しくないようです。かく言う私もはっきりと両者の区別がついていない状態で城跡を訪ねましたが、正成・正行親子の後醍醐天皇に対する忠孝談は戦前の日本人なら知らぬ者のいないエピソードだったようで、飯盛山頂で中年男性が正行の像を指して「楠木正成の像だ」と言っている傍ら、同じ場に居合わせた高齢男性が孫と思しき子供に正行の名を言って聞かせているのが印象的でした。正行が正解です。

■河内国騒乱

 戦国時代になると畠山氏が河内国の守護となり、その有力家臣であった木沢長政が飯盛山に再度城を築きました。やがて長政は同じく畠山氏の家臣であった遊佐長教と共謀し、畠山氏の傍流を担ぎ出して主君・畠山稙長を放逐しますが、後に長教との間に意見の衝突を生じ、長教は再び旧主を擁立します。畠山家中での主導権争いが泥仕合の様相を呈する中、長政は高屋城の稙長を打ち破りますが、ここで稙長と長教が助けを求めたのが、当時の畿内で着実に力を付けていた長慶でした。長教は長慶との戦いに敗れ、討ち死にの最期を遂げました。その後長教に代わって台頭し始めたのが長教の類縁者であった安見宗房で、飯盛山城も宗房の領有するところとなりますが、宗房もまた長慶に敗れ、最終的に城は長慶のものになりました。畿内有数の勢力を誇っていた畠山氏の内訌に、図らずも乗じる形になった長慶は、いよいよその権力の座を磐石のものとしました。

■三好長慶晩年の城

 長慶が飯盛山城を居城としたのは永禄3年(1560)頃のことだったと考えられています。古くから畿内動乱の渦中にあった飯盛山城は、だからこそ畿内支配のために好都合の立地にあったと言えるのかも知れません。信長にせよ秀吉にせよ、後の天下人たちがある時期から大坂を志向するようになったことを思えば、京に近い芥川山城からこの地へ居城を移した長慶の胸の内には興味を引かれるところです。長慶は永禄7年(1564)に山麓の屋敷で没したと伝わっており、彼の死後急速に斜陽化が進んだ三好一門は、織田信長の軍勢に駆逐され、その過程で攻め落とされた飯盛山城は、程なく廃城となりました。
 現在の飯盛山城址は大都市近郊圏の山として、近隣住民のハイキングの場として親しまれているようです。大阪平野の東端に位置し、生駒山地の一部を形成する山なので、大阪府方面への展望にはすばらしいものがあります。しかし比高も相応のもので、山頂までの道には意外と急な登りが続き、いくら戦国の世とは言ってもここに常住するのは大変だったでしょう。居館等はやはり山裾に存在していたのだと思います。

(2008年04月22日 初掲)















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