築城巧者・藤堂高虎の残した城。
伊賀上野城
所在地
別名
三重県伊賀市上野丸之内
:白鳳城
築城者
築城年
:滝川雄利
:天正9年(1581)


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■天正伊賀の乱、決着

 天正9年(1581)、織田信長の息子・北畠信雄は軍勢を率いて伊賀の国に侵入しました。山がちな伊賀の各地に割拠していた土豪と民衆たちはこれに反発、織田軍との熾烈な戦いへと突入していきました。この戦いに先立つ事3年の天正6年9月にも、信雄は伊賀に攻め込み、あえなく撤退していました。これらの戦いが、世に言う天正伊賀の乱です。
 かつての敗北の記憶があったため、第二次伊賀の乱の際の織田軍は猛烈な殲滅戦を行ったと伝えられており、その甲斐あって伊賀は織田氏の領国に組み込まれました。一度は攻略に失敗したとは言え信雄は結局伊賀の領主の座に納まり、その実質的な領国経営は家臣の滝川雄利に任される事になります。この時雄利は、その昔平清盛が建立したといわれる平楽寺の跡に城を築きました。これが、上野城のはしまりであると言われています。
 本能寺の変後の天正12年、天下人となった羽柴秀吉は脇坂安治を上野城主に任じましたが、安治は翌年のうちに摂津へと移封になり、その後には筒井定次が入りました。定次の時代、上野城は拡張工事を施されたようです。
 

■築城巧者・藤堂高虎の築いた城

 時は流れ世も変わった慶長13年(1608)。定次は関ヶ原の戦いで徳川家康の東軍に組し、時代の荒波を乗り切ったかに見えましたが、結局は失政を理由にして改易されてしまいます。筒井氏の後の上野城にやってきたのは、藤堂高虎でした。伊賀及び伊勢の領主としての赴任でした。
 この時代の上野城は、いまだ大坂城に存続していた豊臣氏に対する備えの城に位置づけられていたようで、当代一流の築城家として知られていた高虎の技術と知識の粋を結集して改築工事が行われました。一説に高虎は、伊賀の忍びを使って日本各地の城の情報を収集、それを分析して天下の名城を築こうとしていたとも言われます。それが史実であったかどうかは定かではありませんが、実際に縄張りは高虎自身が行い、上野城は実践本位の堅城へと変貌していきました。大坂に面した西側にはこの城の最大の特徴である深い内堀と高さ30mの石垣が築かれ、非常に堅牢な守りを誇っています。もっとも、高虎自身が工事の完成以前に伊勢津城へ移ったため、上野城は結局未完成に終わりました。
 

■上野城の今

 左の写真が件の高石垣です。写真になると意外に分かりにくいのですが、さすがかなりの高さがあり、ちょっとやそっとでは上れそうにありません。危なっかしい事に、城内側に手すりや柵の類は設けられていません。この石垣と堀によって現在天守閣の建っている本丸が守られています。
 上野城天守閣は、完成を間近に控えた慶長17年に暴風で倒壊し、その後昭和10年(1935)に現在の模擬天守が建造されるまで、再建される事はありませんでした。つまり往事の上野城に、本当に現在のような天守閣が建っていたのかどうかは心もとない話だということになるのですが、どうやら天守台部分までは高虎時代の遺構なのだそうです。
 そう考えるとちょっぴりありがたみが損なわれてしまうような気もする伊賀上野城ですが、JR関西線の車窓から遠望できるその姿は美しく印象的で、現在ではすっかりこの街のシンボルとなっている事は間違いなさそうです。
 

(2008年03月01日 初掲)















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