島津貴久覇望の城。
一宇治城
所在地
別名
鹿児島県日置市伊集院町大田
:伊集院城、鉄丸城
築城者
築城年
:紀時清
:12世紀


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■薩摩の支配権をかけた戦い

 JR鹿児島本線伊集院駅の前には島津義弘の像が立っています。鹿児島県民の義弘に対する思い入れは強いらしく、この場所に彼の像が立っているのは、駅の南西にある城山に、一時期島津氏の本城が置かれていたことによるのだと思います。ただし同時期の島津氏当主は、義弘の父にあたる島津貴久でした。
 貴久は、相州島津氏から養子に入り、島津の宗家を継承した人物ですが、彼の父である忠良も、伊作島津氏から相州島津氏に入った人で、つまるところ貴久のルーツも伊作家にあったと言えます。そのため本家を継承した貴久とその後ろ盾になっていた忠良の父子は、長らく伊作家累代の居城・伊作城を本拠地としていました。貴久が名実共に島津の盟主となったのを象徴する出来事は、その鹿児島入りだったわけですが、貴久が形式的に宗家を継承してからともかくも対抗勢力を一掃するまでには紆余曲折の時期があり、伊作からいきなり鹿児島に入れたわけではありません。
 一宇治城は、鹿児島入りの前段階において貴久が定めた新たな居城でした。城のある伊集院の地は、薩摩国内における交通の要衝に位置しており、やや南に偏る伊作城に比べると、薩摩の統治者の城に相応しいものです。

■一宇治城での10年

 一宇治城を築いたのは、鎌倉時代はじめの紀時清だったと考えられています。紀氏の直系は4代で途絶え、その後は伊集院久兼にはじまる伊集院氏が代々居城としていました。
 貴久がここを奪取し本城としたのは、天文5年(1536)3月のこと。同時期は、島津一門はもちろん、そこから派生した伊集院氏をはじめとする諸氏もが敵味方に分かれて争う混乱期でしたが、当時の貴久にとって最大の敵であった島津実久が北薩を本拠としていたこともあり、従前の伊作から北進した伊集院を居城としたことは、実久との決着に臨もうとする貴久の決意の表れだったのかもしれません。
 貴久が実久を紫原で破ったのは天文8年。これでひとまず宗家継承者の座をかけた争いには決着がつきましたが、貴久が薩摩を統一するまでにはさらに10年近くの月日を要しました。貴久が一宇治城を出て鹿児島の内城へと移ったのは天文19年のことでした。
 貴久が一宇治城を拠点としていた時期は、島津氏が戦国大名へと変貌を遂げようとしていた時期の最後期に当たります。

■城山公園として

 伊集院の駅前と言っても良いような場所に残された一宇治城跡なので、現地を訪ねてみるまでは小さな丘陵に築かれた城だと思い込んでいたのですが、実際には意外と山らしい山の上に築かれた城だったようです。北に神之川が流れ、天然の堀の体を成しているのも城山らしい特徴でしょう。
 もう一つ予想外だったのは城跡の整備状況で、想像していたよりも都市公園然として整備されています。幸いなことに城の遺構を無視して公園化されたものではなく、かつての曲輪を基調として整えられており、案内板の類もよくまとまっていて、整然とした公園の姿の中からも、過ぎ去りし時代の情景を想像することができます。
 縄張り上の特徴として、いかにも南九州の山城らしく、空堀によって区切られた神明城、伊作城、南之城、中之城、釣瓶城等、独立性の高い曲輪群が連立するようにして、一つの城域を形成しています。
 貴久は一宇治在城時代に、かのフランシスコ・ザビエルの訪問を受けたりもしており、現在では神明城に記念碑が立っています。

(2009年05月18日 初掲)





















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