越前朝倉氏五代栄光の居館跡。
一乗谷館
所在地
別名
福井県福井市城戸ノ内町
:なし
築城者
築城年
:朝倉孝景
:文明3年(1471)


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■埋もれていた遺跡

 一乗谷は福井市の南西部に位置する谷間の土地です。谷の真ん中を流れる一乗谷川は、山地を抜けたところで足羽川に注ぎ込み、その流れは福井平野を西に貫いて日本海へと注ぎます。今からおよそ600年以上も前のことになる文明3年(1471)、越前の守護であった朝倉孝景は、本拠地を福井市黒丸町にあった黒丸館からこの山間部へと移しました。それから5代103年間にわたり、一乗谷は朝倉氏の城下町として栄華を極めました。
 一乗谷の歴史に引導を渡したのは織田信長でした。天正元年(1573)、信長は時の朝倉家当主義景をこの谷に攻め、そこにあった建物は、武士の館と言わず町人たちの住居と言わず、ことごとくが灰燼に帰しました。朝倉家の滅亡後に北陸の仕置きを任された柴田勝家は、現在の福井市中心部に北ノ庄城を築き、一乗谷はそのままほとんど顧みられることもなくなっていきました。
 朝倉氏の滅亡からおよそ400年の時が経過した昭和43年(1968)、遺跡となっていた一乗谷の街の発掘が開始されました。滅亡後から開発らしい開発を免れてきた付近の土中からは、膨大な量の什器類や建物跡などの遺物が発掘されました。街の跡はそれ自体が、戦国期の城下町の様子や雅やかな文化を誇っていた朝倉氏一門の暮らしを今に伝える貴重な巨大な史料となりました。
 発掘は現在も続けられており、それと同時に一乗谷には発掘によって明らかにされた戦国時代の様子が再現され、日本国内屈指の戦国遺跡となっています。

■復元された街並み

 一乗谷は前述の一乗谷川に沿った南北約5km、東西は最大で約500mの山間地です。その中で復原街並みは、南北250m、東西100mほどの範囲に収まるようです。
 かつて足羽川に面した谷の入り口(北側)に下城戸が、奥川に上城戸が築かれ、二つの間を城戸ノ内と称しました。城下町の主要機能はこの城戸ノ内に集中していました。
 国主の居館や重臣クラスの屋敷は川よりも東側に多く見られたようです。国主の館は城戸ノ内のやや上城戸寄り、すなはち谷の奥側に配置されていました。近世城下町のように、城の周りに家臣の屋敷を配置するような街わりではなく、武士階級の家は谷全体に分散して配置されていました。余談ですが、朝倉氏の屋台骨を支えた朝倉宗滴の屋敷は下木戸よりもさらに北側の安波賀町あたりに存在していたようで、何から何までが城戸ノ内にあったわけではありません。
 これまでの発掘調査では、一乗谷からは朝倉氏時代のものと思われる田畑の跡は発見されておらず、谷の内側には専ら宅地と道、あるいは寺院などが広がっていた事が分かっています。写真が復元された一乗谷の街並みです。表通りと各屋敷は土壁によって隔てられており、往来からは家の中の様子が分からないようになっています。これは比較的身分の高い武家屋敷郡を再現したもののようです。近世城下町に見られるような枡形などは目に付きませんでした。往時もこのような風景が広がっていたのでしょうか。

■人々の暮らし

 写真は復原武家屋敷の内部などの様子です。土塀によって隔てられた表通りから門をくぐると、中級ないしは高級武士の屋敷が再現されており、もっと小ぶりな家屋、つまり身分のさほど高くない主が住んでいた家の場合は土塀がなく、溝によって隣家と隔てられていたそうです。
 左に掲示した写真は、復元された町屋のものです。土塀はなく、通りから直接屋内に入れる構造になっているのが分かります。ちょっと見づらいですが、入り口に暖簾がかかっているのが分かるでしょうか。おそらく商人の家を再現したものなのでしょう。町屋の方も建物内部まで復元されていますが、建物そのものが小さいこともあり、受ける印象は武家屋敷よりもずいぶんそっけないものです。
 復原された屋敷の中には、戦国一乗谷の様子をジオラマで再現して展示するコーナーがあったりしますが、中には建物の内部までを史料に忠実に復元し将棋を打つ武士や台所の様子を展示するものがあったりと、武士階級の暮らしを些細な事まで再現しているところもあり、興味をひかれます。あまり見境なくあちらこちらを覗いていると、復元の舞台裏までも見えてしまったりしますが。
 休憩所やトイレなどの施設もこうした景観を壊す事がないよう、雰囲気に溶け込んだ外観をしています。

■義景の居館跡

 朝倉義景の居館があった場所は、街並みが復原された区画からは主要地方道鯖江美山線によって隔てられたところにあります。この一画にある唐門は、一乗谷の朝倉氏遺跡を紹介する時には必ずと言って良いほど目にする非常に有名な門ですが、立派なのは門だけで、門をくぐって屋敷跡に入り込んでも特に何かが再現されているわけではなく、少々拍子抜けしてしまいます。ただし、建物の配置を示す礎石などはちゃんと存在していますので、かつては確かにここに大名の居館があったことを実感できます。
 この区画には元々朝倉氏の菩提寺である心月寺の松雲院があったのだそうですが、発掘のために立ち退いてもらったのだとか。かくして調査を開始すると、厚く堆積した土の層の下からは、織田軍による焼き討ちの跡と思われる黒い炭の層が出てきたのだそうです。ここは義景の墓のあった場所でもあり、こちらは現在も保存されています。
 義景館跡では、見る人が見れば庭園の跡も読み取れるのだとか。おそらく、松永久秀らの暗躍によって都を追われて浪々の身となっていた覚慶こと足利義秋(後に義昭)を迎えるため、「御所」を作り、それに伴って当主の屋敷も相応のものに作り変えられたのでしょう。遺跡とは別に残された書状などによれば、一乗谷では義昭の滞在中、茶の湯や音曲など風雅を尽くした催しが行われたと伝えられています。
 朝倉義景というととかく暗君の評が付きまといますが、その原因の一つには足利将軍の正統血統を手中に収めながらこれを有効活用できず、結局天下に覇を唱えられなかった事があります。もっともゲームと現実は違い、戦国大名の誰も彼もが天下を望んだわけではなく、中にはお家の存続と自国の安寧とを第一に考えた人たちもいたわけで、義景もそういったグループの人だったというだけなのかもしれません。義景にとっての義昭は、越前一国平和主義のための旗頭とはなり得ても、天下統一の切り札には見えなかったと言う事なのでしょうか。
 ただそれにしても、後年になって強大化した織田信長との対立路線に踏み込んでしまい、しかも巧みにその鋭鋒をしのぐ手立てを講じられなかったのは、やはり失策だったような気がします。後述しますが武田信玄による信長包囲網を破綻させてしまっていたのは、他でもない義景なのです。一乗谷を歩く事で一見不可解な義景の抱いた思いが見えてくるのかもしれないと思いましたが、確かにこの谷には俗世の事を忘れて生きていきたくなるような、不思議な力場があるような気もします。しかし、それにとらわれて文弱に流されてしまったのだ結論付けてしまったら、結局義景の弁護にはならないのですが。

■滅び行く名門

 一乗谷の舘は、越前朝倉氏の栄華の象徴でした。その居館はしかし、織田信長軍の進行によってついには灰燼に帰しました。最後の当主となった義景は、一族の武将・朝倉景鏡の勧めに従って大野方面へと逃げ延びたものの、ついには景鏡の裏切りに追い詰められ、六坊賢松寺で自刃しました。義景に対する信長の怒りは激しく、一時は我が世の春を謳歌していたであろう彼の頭蓋骨が、同盟者であった浅井久政・長政父子と共に薄濃(はくだみ)を施した盃にされてしまった故事は良く知られるところです。
 名門の落日、一門の武将を信用し、最後の最後で裏切られ、そして破局へと追いやられるパターンは、奇しくも甲斐の武田氏にも当てはまる話です。さらに言えば、朝倉氏・武田氏共に下克上型ではなく、守護大名からの脱皮を成し遂げた部類に含まれる戦国大名です。もちろん、守護職スタートで戦国大名になったからと言って、決してその道程が平坦であることを示すものではなく、朝倉氏においても分国法「朝倉孝景条々」の制定などにより、大名集権的な統治体制を作ることに成功しており、一概に文弱体質に慣れきった家風と断ずることはできません。
 孝景から四代後の、しばしば「愚将」の烙印を押される義景にしても、女色に溺れて武将としての覇気に欠けた人物であったと決め付けるのは早計なのかもしれません。代々当主を支えた宿将の死後に急速に身上をつぶしたこと、武田信玄を実質的盟主とした信長包囲網での戦線離脱など(結果的には信玄の死亡により信長は虎口を脱していますが、織田氏を全方位から同時多発的に挟撃することで信玄の存在が信長にとっての重大な脅威になりえたこの戦略において、義景は信長に対する攻撃を肝心なところで取りやめてしまっており、仮に信玄の寿命が延びていたとしても、信長は北陸方面に当てるべき兵力をも武田にぶつけることが可能になっていたと言われています)問題行動が多かったのも事実ですが、加賀の一向一揆の脅威に常にさらされるなど、越前の舵取りには難しいものもあったのでしょう。
 ちなみに一乗谷を語る上では若干蛇足になりますが、かつて信長によって稲葉山の城(岐阜城)を追われていた斎藤龍興は、朝倉の客将として信長と戦い、その滅亡と運命を共にしています。

(2008年03月01日 初掲)

























































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