相良氏六百余十年の居城。
人吉城
所在地
別名
熊本県人吉市麓町
:繊月城、三日月城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■九州の小京都

 人吉市は熊本県最南部の、山地に囲まれた人吉盆地に位置しています。九州西部を南北に貫く九州自動車道が市内を通っているから良いようなものの、公共交通機関を利用して人吉に向かおうとすると、熊本側からも鹿児島側からも便が悪く、地理的条件以上に辺境の土地であるかのように錯覚してしまいます。私は電車で人吉入りし、バスで人吉を出たので、その道中はわりと難儀した記憶があります。
 そんな山深い人吉ですが、古くから九州の小京都として知られた、歴史ある城下町でもあります。人吉城は人吉盆地の西寄り、人吉市の南部に横たわる九州山地の末端部が市街にまで突き出すような形になるあたり、球磨川と胸川の合流点に面して築かれた平山城でした。球磨川の流れは日本三大急流の一つに数えられるほどであり、天然の堀とするにはまさにうってつけの川でした。
 この地に領主の居館ないしは城砦に類するものが築かれたのは、かなり古くのことだったようで、平安時代末の平頼盛の頃には、その城代だった矢瀬主馬佑が居城を構えていたと伝えられています。ところが鎌倉時代になると、同じ人吉盆地の東部・多良木荘を領していた相良長頼が主馬佑を謀殺してその居城を奪ってしまいました。以後、人吉城は明治維新までの七百年近くにわたって相良氏の居城であり続けました。長頼は人吉荘の地頭に任じられていますが、人吉城の奪取と地頭職任官とどちらが先立つかは異説があります。

■相良氏による長期支配

 もちろん六世紀以上にわたる相良氏の人吉統治が常に磐石だったわけではありません。前述したとおり人吉は山間の地であり、東西南北いずれの地域からも山によって隔てられていて防御面では地形上の有利はありましたが、戦国時代末の九州が三国鼎立状態となった時期を迎えると、歴代当主は特に勢力圏の接近している大友氏や島津氏など周辺列強の間で難しい舵取りを迫られています。この時期、有事の際に備えて人吉城の改修も進められました。古い時代の人吉城は現在の城址の東南に位置する高地に築かれた原城と呼ばれる山城でした。もともとは南の島津氏を強く意識した縄張りで防御の力点も東と南に置かれていたようですが、新たに築かれた城は川に面した北と西への防御力が強化されています。現在見られる平山城の人吉城の基礎が完成したのは、十八代義陽から二十代頼房にかけての時期の事だったと考えられています。およそ五十年、異説によれば八十数年の時間を費やしたと言われる大規模な普請でした。ちなみに近世城郭としての体裁を整えた当初から天守閣を頂かない城だったようです。

■石垣の残る古城

 人吉城は大方の城にも増して火災の被害に悩まされた城で、享和2年(1802)に城内から出火して建物の多くを焼失。さらに文久2年(1862)には城下から発生した火が城にまで燃え移り、全焼しました。それから程なく明治維新を迎えたため、城の建物の多くが失われたままにその役割を終えています。さらに西南戦争で薩摩軍が城に立てこもった事もあり、まがりなりにも藩政期から残っていた建物も後に破却され、石垣ばかりが残る城跡となりました。
 しかし石垣の保存状態は良く、その規模もなかなかのもので、蒼古とした城跡には名城の風格が漂っています。城内で特に注目すべき遺構は、「はね出し」という工法で築かれた御館北側の石垣で、石垣の上部に庇を思わせる突出部がつけられており、防火のために設けられたもののようです。文久の大火後に築かれた、西洋の技術を取り入れたといういわば当時最新鋭の石垣で、函館の五稜郭などの西洋式城郭以外では、ここ人吉城にしか見られないものとのこと。

(2009年03月21日 初掲)





















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