原爆攻撃に晒された山陽道の名城。
広島城
所在地
別名
広島県広島市中区基町
:鯉城
築城者
築城年
:毛利輝元
:慶長4年(1599)


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■中国の盟主の城

 広島城は天正17年(1589)から毛利輝元によって建造が開始された城です。
 吉田郡山城の項でも触れたように、当時の毛利氏は輝元の祖父である毛利元就の偉業を引き継いで中国地方に一大勢力を張る大大名でした。後の関ヶ原の戦いの戦後処理で「負け組」の代表を務める形となってしまいその所領の大半を失う結果を迎えますが、豊臣政権下における毛利氏の支配地は、安芸をはじめ、周防、長門、石見、出雲、備前、備後、備中、播磨の九ヶ国に及び、これを治めるには父祖の代からの本拠地である郡山の地はあまりにも手狭で交通の便も悪い片田舎と言わざるを得ませんでした。
 広島城は、九カ国の太守の居城たるに相応しい城として、予定地の選定から城下町の造営に至るまで何もないところから始まり、ついにはひとつの町として完成させた近世城郭のはしりです。
 

■広島の街、はじまる

 広島城築城以前のこの地は五ヶ村と呼ばれていたそうです。ただし、街づくりに適した平地は北部のわずかの地域に存在していただけで、それ以外の大部分は海水が入り込む低湿地帯でした。広島城築城、そしてその城下町づくりは、この状況をして輝元に「島普請」と言わしめた大事業でした。それでも輝元がこの地に新たな居城を構えようとしたのは、この地が瀬戸内海の海運を掌握するのにも好適の地だったこと、そして主君・秀吉の大坂城も同じような淀川のデルタ上に立地していたことが影響していたと言われています。
 広島城の縄張りは秀吉の知恵袋・黒田官兵衛孝高(如水)の手によるものでした。秀吉の聚楽第を模したものだったとも言われています。そして築城と同時に堀川の開削、堤の建築、大坂の街を参考にしたとも伝えられる町人町の町割と、工事は同時多発的かつ大規模に行われました。築城に際しては毛利領国のあまねく村々から人夫が借り出されると同時に、現在で言う国債に近い形で各戸から財産を借り出して資金をまかなったと伝えられています。
 こうして新造された街は、「広島」と名付けられました。毛利氏の遠祖・大江広元の「広」と築城に功のあった土地の豪族福島氏の「島」を合わせて「広島」と成したという説、広い州の上に島を造ったから広島と名付けたという説があります。
 

■毛利氏後から現在まで

 これらの大事業が完成を見たのは慶長4年(1599)のことでした。ところがその翌年、関ヶ原の戦いが勃発。「天下を望むな」という元就の遺訓に反して西軍の盟主となった輝元は、戦後に広島城退去の憂き目に会いました。
 毛利氏の後に広島城へ入ったのは豊臣恩顧の大名・福島正則です。ところが元和3年(1617)。洪水によって広島城の石垣の一部が損壊しました。前述の通り、広島城はもともと低湿地に築かれた城であるだけにそれも無理のないことだったのですが、正則はここで大きな過ちを犯します。すなはち、幕府に無断で城の改修を行ったために謀反の疑いを掛けられ、所領の全てを失い広島城を放逐される結果につながりました。その後は浅野氏が四十二万石で入城し、そのまま明治維新を迎えました。正則が四十九万石で広島城に入ったことを思えば、五十万石程度の大名に似つかわしい城だったのかも知れません。
 後、広島城には陸軍五師団の兵営が置かれました。軍都・広島の始まりですが、現在ではこれが為に広島の街が原爆攻撃を受けた事が明らかになっています。原爆の一閃により広島城の天守閣は一瞬かしいだ後、跡形も無く瓦解したと伝えられており、後には石垣だけが残りました。ひょっとすると石垣が残っただけでも大したものだったのかもしれません。これは広島城が爆心地近くに位置している関係で、原爆の爆風が横薙ぎではなく真上から襲い掛かってきたことも関係していると言われています。
 広島城内の一角には、現在でも「被爆石垣石」と記銘された当時の石垣が残されています。ただ、草むらの中に等閑にされている感じで、あまり目立つものではありません。
 

(2008年03月01日 初掲)





















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