竹中半兵衛終焉の陣城。
平井城
所在地
別名
兵庫県三木市平井
:平井山ノ上付城
築城者
築城年
:羽柴秀吉
:天正6年(1578)


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■三木城攻囲

 羽柴秀吉が播磨三木城を攻めたのは、天正6年(1578)のことでした。この行軍には、秀吉の軍師として知られる竹中半兵衛も従っています。三木城それ自体はさほど大きな城ではなかったものの、城将別所長治の頑強な抵抗もあって、対陣は2年近くの長きに及び、そのさなかの天正7年4月、半兵衛は陣没しました。世に言う三木の干殺しは、彼の献策であるとも言われますが、詳細なところは定かではありません。秀吉は、三木城を力攻めすることで味方陣営の被害が拡大することを懸念し、三木城の周りを取り囲む城を一つ一つ陥れていた後、裸城となった三木城の攻囲を続けたのでした。
 秀吉が長の対陣のよりどころとした平井城の跡は、半兵衛墓所の裏山に残されています。半兵衛の墓は、山麓のぶどう園の一角にあり、近年になって築かれたものと思しき塗り壁に囲われた墓標には、今も新鮮な花が供えられていました。地元の人の崇敬を集めているようです。

■平井山本陣

 平井城は、平成25年という比較的近年になって当の三木城と共に、国指定の史跡となりました。ただし、三木城跡がちょっとした史跡公園という以上に見るべきものが少ないことを思えば、こちら平井城の跡の方こそが、史跡としての核心部と言えるのかもしれません。天然の要害と言うには程遠い丘陵上に築かれた陣城は、平山城の位に置くのが適当だろうと思われます。当然のことながら、ここに籠って本格的な戦闘を行うものというよりは、西に三木城を監視しつつ、その兵糧攻めを完成させるため、城に近づく敵部隊を遮断するための拠点としての機能が第一義的に求められたのでしょう。現在は、その三木城方面への見通しを得にくい状態となっています。と言うか、高台から見渡すに、土地勘なしではどこが三木城の跡なのかを比定するのも簡単ではありません。
 もちろん戦時拠点ではあるので、必要最低限の防備の跡は認められます。兵が駐屯するための段状削平地や、主郭と考えられる丘陵頂上部の平坦地に施された土塁の跡がそれです。この他、推定地ではあるものの、大手口の跡と言われる切通し地形らしきものもあります。ちなみに現在では、この切通しの先の通路がどこに通じているのかはっきりしません。少なくとも、通常の登城路としては一般に開放されていないようで、反対側に着けられた道を登って主郭に至り、そこから少し下って大手口にたどり着くような形となっています。

(2017年04月02日 初掲)















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