海外をも見晴るかす西海の城。
平戸城
所在地
別名
長崎県平戸市岩の上町
:日ノ岳城
築城者
築城年
:松浦鎮信
:慶長4年(1599)


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■西の果ての海城

 戦国時代の半ばから江戸時代の初期にかけて、世界に向けて開かれた交易の窓だった平戸は、東シナ海城に浮かぶ平戸島に開かれた町でした。そしてその島を見下ろす高台に築かれた平戸城は、名実ともに平戸を代表する風景と言って良いでしょう。
 北松浦半島からは平戸瀬戸と呼ばれる海峡を挟み、丘陵上に築かれた平戸城の姿を臨むことが出来ます。点景のような平戸城ですが、紺碧の海と白亜の城壁の対比が印象的で、文字通り風光明媚の地となっています。
 この青い海峡を外堀として持った平戸城は、全国の城の中でも数少ない、特異な歴史を持つ城でした。

■江戸中期の築造

 平戸藩の初代松浦鎮信は、この地方に一大勢力を誇った松浦党に出自を持つ人物でした。龍造寺氏や島津氏が覇を競った時代を生き抜き、九州平定に乗り出した豊臣秀吉に認められて松浦地方に所領を与えられました。そして、彼が朝鮮出兵から帰還した時期に現在とほぼ同じ場所に築かれたのが日ノ岳城でしたが、この城は完成を見ないままに破却されたと伝えられています。嗣子・久信のために丹精して築いた城であったのに、当の久信が若くして亡くなったのに落胆したためなどとも言われていますが、久信の死の背景には徳川家康との緊張関係があったとも言われており、叛意を疑われぬための選択だったのかもしれません。
 それから百年ほど後の元禄年間になって、時の藩主・四代鎮信が幕府に築城を願い出て、既存の城の改修すらままならない時代にあって、異例中の異例とも言える許可を得ています。この処置は、平戸の地が、国外に向けて重要な意味を持つ要衝であったこと、さらに当時の松浦氏が幕府と姻戚関係にあったことによるものと考えられています。鎮信は山鹿素行と交友があったため、城は山鹿流の流儀に則って築城されました。
 その後は、明治維新まで松浦藩の居城として存続することになります。

■平戸市のシンボルとして

 平戸大橋を渡って平戸島に上陸すると、昭和37年(1962)に再建された平戸城模擬天守の姿が視界に飛び込んできます。現在で言う市役所裏手の山に位置する平戸城は、平戸観光のコースの一部に組み込まれることも多い観光地です。
 一番目に付く天守こそ再建ではあるものの、現存遺構として狸櫓や北虎口門が残されています。城全体の規模が大きくないこともあって小ぶりで目立たない造作の建造物ですが、再建された建物には無い古めかしさが、古城の風情を伝えてくれます。狸櫓は、もともと多聞蔵と呼ばれていたものが、いつの頃からか狸が住み着くようになったと言う伝説から、そう呼ばれるようになったもののよう。城の歴史とは直接的につながりの無い古民具の展示室として利用されているのは微妙なところです。
 天守閣や他の櫓が展望所や地方史資料の展示室になっているのは、他の再建城郭にも共通する傾向ですが、平戸城の場合は海に向かっての展望の美しさが印象的でした。

(2010年06月27日 初掲)















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