キリシタン大名有馬氏の城。
日野江城
所在地
別名
長崎県南島原市北有馬町戊
:日之江城など
築城者
築城年
:藤原経澄
:建保年間(1213〜1219)


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■有馬氏とキリスト教

 日野江城の歴史は比較的古く、もともとは鎌倉時代初期に築かれたものです。有馬氏の居城としてその存在を知っていたことから訪問の運びとなりましたが、どうやら築城時からずっと、有馬氏の居城だったようです。ちなみに有馬氏は藤原氏の末を自称しているらしく、築城者は藤原経澄と伝えられています。16世紀半ばの有馬晴純の頃に、有馬氏は最盛期を迎えましたが、龍造寺氏の圧迫を直に受けるような土地に位置しているため、龍造寺の躍進と反比例するように、家運に陰りが見えたと言います。
 土地柄から、南蛮交易によって富を得ており、同時に有馬氏と言うとキリシタン大名としても名高いところですが、意外なことに晴純はキリスト教に警戒感を抱いていたのだそうです。日野江城の支城として築かれたのが島原の乱で知られる原城なのですが、乱と同時期の有馬氏は日向延岡の藩主となっていました。島原の乱当時、この地を治めていたのは島原藩の松倉氏でした。有馬氏に代わって日野江城に入った松倉氏は、これに代わるものとして島原城を築き、日野江城を廃城にしています。この島原城が、島原藩の表高に比して豪奢に過ぎたため、松倉氏は領民に重税を課すことになり、これが一揆の一因になったと言われています。

■キリスト教関連遺産にはなれず

 松倉勝家の悪政は語り草となっており、乱後に勝家が切腹ではなく罪人同様の斬首刑に処せられた顛末を見ても、その執政には相当の問題があったことが分かります。有馬氏統治による土壌もあって元来キリシタンの多い土地柄と、為政者たる勝家の資質が最悪の形で組み合わされたため発生した大乱だったと見ることもできるでしょうか。ちなみに乱には天草地方の農民も合流していますが、天草を統治していたのは唐津藩の寺沢氏だったことから、寺沢氏もその責を問われました。
 城跡には現在も石垣なとがよく残り、削平地形もほぼそのままと、状態の良い平山城です。国指定史跡であるのも伊達ではないようです。余談ながら、キリスト教関連遺産として一時期は世界遺産登録の目もあるかに見えましたが、あまり関連性がないということでふいになった経緯もあるのだそうです。ちなみに、現地の解説板によると、仏像を使った石段が発掘されたというような記述はありましたが、どうも現存はしていないように見えました。あるいは、キリシタン優位の土地柄の影響でそのような遺物があったのかもしれません。

(2018年04月24日 初掲)















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