信濃守護の一族・小笠原氏の居城。
林城
所在地
別名
長野県松本市大字入山辺
:大城、金華山城
築城者
築城年
:小笠原長棟
:16世紀


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■府中小笠原氏の本拠

 松本市の郊外、避暑地として知られる美ヶ原への道すがらにその名残を残す林城は、信濃守護小笠原氏の居城でした。今日林城と呼ばれるものは、一般に林大城の事を指すことが多いのですが、歴史的にはほど近くにある林小城も含めて林城とされていました。が、今回は林大城中心の記事です。どうやら現在小城の方は大城ほど整備されておらず、ややとっつきにくい状態となっている様子。対照的に大城の方は、登城路も整えられており、ダート路ながら本丸近くまで車で登れる道も存在しているようで、見学の容易な城と言えます。
 林城はもともと信濃守護小笠原氏の本流であった府中小笠原氏の居館があったところでしたが、16世紀前半の長棟の時代に本格的な城を築いたと考えられています。長棟は小笠原一族の内訌を治め、小笠原氏が戦国大名化するための地盤を作り上げました。

■武田の軍門に下る

 武田信玄(晴信)の信濃攻略には、二人の難敵が立ちはだかったとされます。その一方は葛尾城主・村上義清。一人の武将としては優れた資質を持っていた義清も、領主としての実力は武田氏に遠く及びませんでした。そしてもう一人が小笠原長時でしたが、信濃守護の家に相応しく武田氏にも対抗し得る実力を持ちながら、武将としての覇気に欠ける人物だったと言われています。信玄によって信濃の地が切り従えられていった理由は、相反する性格を持った在地の二人の将が足並みをそろえて共闘できなかった事にあったのかもしれません。
 晴信が上田原の戦いで義清に敗れたことで(葛尾城の項参照)、一度は武田氏に屈服した諏訪地方の豪族たちは再び武田氏に対する反抗の姿勢を見せるようになります。そして彼らの実質的な盟主となったのが長時でしたが、塩尻峠の戦いにおいて武田軍に大敗。かなりの痛手を被ったため、その二年後に武田軍の攻撃を受けた際には、小笠原軍は満足に戦うこともできずに瓦解し、長時は林城を追われることになりました。以後、武田氏による筑摩地方支配のの中心地は深志城と定められて、林城は省みられることがなくなったようで、今日の林城の遺構には意外なほど武田氏色が見られません。

■大城単独でも…

 林城は、前述の大城小城の他、複数の支城によって守られる大がかりな防衛線を持った城でした。その中枢たる大城自体の規模も大きく、登山口から主郭部まで登っていくまでの間にも、大小様々の削平地が見られます。曲輪と呼ぶには小さなものが多いとは言え、かなり城全体で大規模な工事が行われたことは推測できます。登って行く途中には、古文献では門の跡とされているものの、門が実在したかどうかは定かではない門跡などもあります。
 山頂付近の主郭部には、土塁、石垣、堀切なども見られ、山城らしさを醸しだしていますが、平らに馴らされた部分がかなり広く、ちょっとした広場のようでもあります。
 史跡としては、現地に詳細な縄張り図が見当たらなかったあたり、どうも不親切な気もしますが。

(2009年11月02日 初掲)















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