「東北の関ヶ原」の舞台となった城。
長谷堂城
所在地
別名
山形県山形市長谷堂
:亀ヶ城
築城者
築城年
:未詳
:不明


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■東北の関ヶ原

 徳川家康は、豊臣政権下における実質的ナンバー2でした。その家康は、秀吉の死後に次第と専横傾向を強めていくものの、前田利家の存命中は彼が家康を牽制する役割を負っていました。その利家もが慶長4年(1599)に亡くなると、いよいよ政権奪取に向けた家康の動きが顕在化していきます。そして利家亡き後の豊臣家中で、家康の独断専行を止めようとしたのが石田三成でした。この二者が武力衝突に至ったものが、言うまでもなく関ヶ原の戦いでした。
 関ヶ原の戦いは、全国の大名が家康閥と三成閥、つまりいわゆる東軍西軍に分かれて行われたものであり、関ヶ原で行われた決戦に前後して、日本の至る所で両陣営に属する大名間の戦いが発生しました。それは東北地方も例外ではなく、関ヶ原開戦のきっかけとなった会津上杉景勝の宰相・直江兼続率いる軍勢と、出羽を治める最上軍、さらに最上軍の赴援でやって来た伊達軍がここ長谷堂城周辺を舞台に熾烈な戦いを演じてみせました。
 

■山形城を支える堅城

 長谷堂城は、関ヶ原当時出羽の多くを治めていた最上義光の本城・山形城から西南に約7kmの位置にありました。築城年代は定かではありませんが、義光よりも二世代ほど前の武将、義光の甥である伊達政宗から見れば曽祖父に当たる伊達稙宗によって占拠されたことがあると「伊達文書」に伝えられている事から、その時期には何かしら城砦のようなものが存在していたと考えられます。
 長谷堂城のある城山は、標高227m、比高は約85m、南北が約650m、東西が約400mという規模です。山そのものが平地部に突き出した独立丘陵の形になっているためさほど規模の大きな山城でもありませんが、関ヶ原当時は周囲を深田や堀、川によって囲まれた要害の地だったといわれています。城将の志村光安は約五千の兵と共にこの城に篭って守りを固め、上杉軍の攻撃によく耐えました。畑谷城など、山形城の防衛ラインとなる城を瞬く間に攻め落とした兼続と二万数千の軍勢も、この城は攻めあぐねたようです。
 前述の通り長谷堂城は小さな丘の上に築かれた城なので、平成の今、物見遊山気分で登ってみてもそれほど堅牢峻険な城という実感はわきません。しかし登山道や本丸跡などは綺麗に整備されていて、これは良い意味で誤算でした。山形平野への展望は良く、特に最上の本城・山形城方面の様子は長谷堂の本丸からよく見えたでしょうから、上杉軍がこの城の攻略を重視したのは分かるような気がします。
 

■兼続その愛−長谷堂城編

 さて、兼続が長谷堂城への攻撃を開始したのは9月14日の事だったと伝えられています。それから約1週間後の22日、壮絶な攻防戦を続けていた両軍の前に政宗の名代・留守政景率いる伊達軍が姿を現しますが、伊達軍は山形城の東・小白川に布陣したまま動かなくなります。そして伊達軍の停滞が伝染したように最上軍と上杉軍も膠着状態に入りました。三者とも、関ヶ原で行われた決戦の行方を占い、その結果を待って去就を決しようとしたものと思われます。すでにそれぞれの戦略は決戦後の新秩序を見据えて組み立てられるものとなっていました。そして、9月の末になって各陣営に「西軍敗れる」の報が届けられました。いち早く動き出したのは、西軍に与していた上杉軍で、早々に撤退を開始しています。もちろん、対する最上・伊達連合軍も追撃を開始しました。
 ここに、史上語り継がれる峻烈な上杉軍の撤退戦が開始されます。通常、撤退戦では追われる側の被害が拡大するものですが、この戦いでは上杉軍はもちろん、追撃に入った最上軍の被害にも多大なものがありました。上杉軍は、追いすがる最上軍に対して鉄砲の弾を雨霰と撃ちかけ、猛将として知られる前田慶次郎利益も奮迅の活躍を見せ、追う側になった最上軍の総大将である義光までもが兜に銃弾を受ける大激戦であったと伝えられています。
 最終的に上杉軍兵の多くは、追っ手を振り切り自軍の勢力範囲である米沢にまで帰還することが出来ました。この時の兼続の手際は、後に敵であったはずの家康からも賞賛されています。家康にしてみれば、関ヶ原開戦のための難癖を上杉の主従に吹っかけたという経緯がありますから、その罪滅ぼしの意味もあって兼続を称揚したのかもしれませんが、それでも兼続の撤退は見事なものだったのでしょう。
 なお、長谷堂城は元和8年(1622)の最上氏改易の時に廃城となっています。


(2008年03月01日 初掲)





















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